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「兵糧蔵」とは 福島相馬市リポート その1

Japan In-depth / 2020年1月20日 20時18分

相馬市には、切妻屋根と海鼠壁を持った建物が多い。市役所に始まり、公民館や小学校、漁具倉庫や公営住宅に至るまで、所謂日本の伝統的家屋の外観を呈している。立谷市長の市長就任以来、こうした建築が進められてきたとのことであるが、まさに城下町の伝統を感じる。平将門の時代より1000年以上続く祭りの「相馬野馬追」も然りだが、長年の歴史に裏付けられた誇りを、相馬市の各所より感じた。



▲写真 切妻屋根、海鼠壁の建物 出典:著者提供


そして、相馬市が傑出しているのは、こうした確たる伝統、「芯」を持ちながら、外部の文化や人材を広く受け入れ、交流する柔軟さを併せ持っていることにある。それもまた、北は仙台藩、南は幕府という強大な勢力に挟まれた歴史が産んだバランス感覚であろう。


江戸時代中期、天明の飢饉において相馬藩は人口が9万人から3万6000人にまで減少する大打撃を受けた。藩の復活の為推進されたのが、二宮尊徳による「報徳仕法」である。尊徳の一番弟子、富田高慶により全国でもいち早く導入された仕法により、相馬藩の財政・人口は回復した。戊辰戦争においても、一度は奥羽越列藩同盟に参加しながら早期に和平の道を選び、大きな打撃を未然に防いだ。横山課長が「会津の人に会った時、相馬から来たことを伝えたら『裏切り者』と言われてしまったよ」と冗談交じりにおっしゃっていたが、中規模藩ながらも伝統を保持し続けた相馬藩の優れた感覚は、歴史が物語っている。



▲写真 相馬中村神社、「野馬追」の像 出典:著者提供


東日本大震災からの復興においても、その柔軟さは生かされた。原発事故の折避難してきた双葉地区の住民を、相馬市は多数受け入れた。立谷市長の指示により、被災地の中でもいち早く仮設住宅を建設し、復興の拠点になったという。


また、印象的だったのが、震災を受け建設された相馬市防災備蓄倉庫、通称『兵糧蔵』である。中に入ると、壁には震災時に支援をしてくれた全国各地の市町村のパネルが敷き詰められていた。これらの町が災害を受けた際も、この蔵から支援物資がいち早く送られている。横山課長が「この蔵は相馬のみならず、日本全国の災害復興のためにある」とおっしゃっていた。他のコミュニティとも積極的に交流をし、「義理と人情」による関係を広げることが、ひいては全国の災害復興を支えることになる。


地域の特色は住民によって作られる。冒頭に述べたように、私は相馬市にて一学生としては余りあるほどの歓待をして頂いた。インターンシップ中も、毎晩のように市役所や中央病院をはじめ相馬市の方々と夕食をご一緒させて頂いた。一人で飛び込んできたよそ者の私をも包摂してくれる柔軟さ、優しさを、相馬市で交流した全ての方々から感じた。


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