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韓国激震、支援団体真の目的

Japan In-depth / 2020年5月26日 23時0分

 


その時の様子を清水澄子氏は、朝鮮総連機関紙「朝鮮新報」2002年6月6日付記事「李愚貞さんを悼(いた)む」で次のように語っている。


 


「私と李愚貞さんとの直接の出会いは、韓国の軍政が民政に転換し始めた1987年8月、韓国から初めて彼女が原水禁世界大会に参加した時である。2人は、KCIAの目を警戒して長崎湾の船上で話しあった。彼女は「金日成主席のこと、北の同胞のことを聞かせて!」「日本で北の同胞・呂燕九(ヨ・ヨング)さんと会える場を作って。あなたならできる」と私の手を握った。私は民族の熱い思いにゆり動かされた。そして2人で知恵をしぼったのが“アジアの平和と女性の役割実行委員会”であった」と回顧している(注:この時ヨ・ヨング氏は祖国平和統一民主主義戦線議長だった)。


 


そしてこの名称にした理由については、他の回顧文で「わたしたちの目的(注:日韓左派と北朝鮮との連携の目的)をわからなくできるから」と明かしている。


 


その後、日本で海部内閣発足後の1990年9月26日に朝鮮労働党と日本の自民党、社会党との「日朝3党共同宣言」が発表され、日朝国交回復と賠償問題が取り上げられる中で、1990年11月に韓国で「挺対協」が結成される。


 


そして1991年の5月、1987年8月に長崎湾の船上で交わした李愚貞氏と清水澄子氏の密約が実行に移される。日本社会党傘下の「日本婦人会議」が組織した「アジアの平和と女性の役割シンポジュウム」の第1回が東京で開催され、北朝鮮代表の呂燕九祖国統一民主主義戦線議長と当時の韓国「挺対協」共同代表の尹貞玉(ユン・ジョンオク)氏と李効再(イ・ヒョジェ)氏がそこに参加し、南北共闘に合意した。この合意以降、挺対協と北朝鮮の繋がりが強まっていった。


 


「挺対協」メンバーはその後、1992年に平壌で開催された第3回「アジアの平和と女性の役割シンポジュウム」で金日成主席と面会した後、元慰安婦被害者を助けるとの名目で、北朝鮮の意向に沿って「日韓分断戦略」を積極的に実践してゆく。


 


この動きは、尹美香氏が理事長となって以後、一層明確になる。尹美香氏の夫とその妹が北朝鮮のスパイとして検挙され、有罪判決を受けたことからもそれは十分に伺い知れる。尹美香氏の夫のキム・サムソク氏は再審で一部無罪となったが、日本にある利敵団体と連携した部分は有罪のままだ。


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