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「またしても」中止?(下)嗚呼、幻の東京五輪 その3

Japan In-depth / 2020年7月26日 11時0分

ところが、この第1回大会が興行的に大成功した上に、世界大会と称しながらヨーロッパと南米にしか出場権がないのでは「看板に偽りあり」ということにならないか、との声も聞かれるようになった。この結果、第3回大会においては、初めてアジアにも出場枠1が与えられたのである。


奇しくも、フランス大会であった。


日本代表が初めてワールドカップ出場を果たしたのは、1998年フランス大会においてであったが、実は1938年フランス大会にも出場するチャンスがあったのだ。


チャンスがあった、というのは、出場するにはアジア予選を突破する必要があったからだが、この時アジアからエントリーしたのは、日本とオランダ領東インド(現在のインドネシア)だけであった。


当時の日本代表がオランダ領東インドに勝つことができたかどうか、これは専門家の間でも意見が分かれるようだが、私は個人的に「勝機は十分にあった」と考えている。


その根拠は、1936年のベルリン五輪において、早稲田大学の学生を中心とした当時の日本代表が、なんと優勝候補のスウェーデンを倒したからだが、このことだけをもって


「当時の日本サッカーはすでに世界レベルだった」


と考え得るほど甘いものではない。たとえこの時にワールドカップ出場を果たしたとしても、本大会でヨーロッパの強豪と当たったら、チンチンにやられたであろう(サッカーでは、一方的な試合展開になることを昔からこう表現する。誤解なきように笑)。


とは言え、現実の初出場より60年早く世界のサッカーを目の当たりにしたならば、日本サッカーのその後の歩みも、ずいぶん違うものになっていたことだけは疑う余地がない。


しかし、五輪の開催権返上とまったく同じ理由で、ワールドカップへのエントリーも取り下げざるを得なくなった。


戦争は、本当に多くのものを国民から奪う。感染症もまた。 


トップ写真:中華民国国民革命軍の機関銃陣地 出典:Museum Syndicate


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