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「コロナ・オリパラ・菅政権-人生は能力?ギャンブル?」続:身捨つるほどの祖国やありや 6

Japan In-depth / 2021年6月10日 23時0分

▲写真 マイケル・サンデル教授 出典:Ethan Miller/Getty Images





ロバート・F・ケネディは、「失業の痛みは、たんに失職により収入を絶たれることではなく、共通善に貢献する機会を奪われることだ。」と言ったという(294頁)。私の持論でもある。共通善とは社会の一員として応分の貢献をしている、私の表現でいえば、社会に貸しはあっても借りはない、自分は社会と対峙しているという誇りである。失業の苦しみは失業保険では一部しかカバーされない。人生では金は一部に過ぎない。失業した人々は、自分の人生と人格を否定されたと骨身に染みるのだ。





「能力にしたがって仕事や機会を分配しても、不平等が緩和されるわけではない。」(173頁)まことにそのとおり。しかし、問題はそれどころではない。





「努力と才能によって能力社会の頂点に登り詰めたとすれば、自分の成功は、受け継いだものではなく、自ら勝ち取ったものだという事実を誇りにできる。」(170頁)これに対して、「あなたが貴族社会の上位層に生まれていれば、自分の特権は幸運のおかげであり、自分自身の手柄ではないとわかるだろう。」(169頁)好運の自覚は謙虚の基礎である。





未だ続く。





「能力主義社会において貧しいことは自信喪失につながる。(中略)自分の恵まれない状況は、少なくとも部分的には自ら招いたものであり、出世するための才能とやる気を十分に発揮できなかった結果なのだ」(170頁)





貴族社会では違う。自分が地主に従属しているのは自分の責任ではない。地主は自分よりもその地位にふさわしいわけではなく、運がいいにすぎない。





自分の能力によって成功した人間は、成功していない人間を見くだす。本人からみれば正当な動機がある。これが始末におえないのは、見下す理由が相続した富ではなく、自由な市場で自ら稼いだ富が自分の能力、社会的な価値を保証していると感じてしまうからだ。反対側にいる人間は、それに対して、「あなたは単に運が良かっただけだ」という反論を予め封じられている。歯噛みするしかない。





この本を読みながら、私は以前読んだ『不道徳的倫理学講義』(古田徹也 筑摩書房 2019年刊)という本をなんども思い出していた。





特に冒頭が印象的な本である。





『こち亀』の主人公・両さんの顔が出ている。両さんが、吹き出しで、「入試 就職 結婚 みんなギャンブルみたいなもんだろ!」と後輩の麗子に対して、大きく口を広げて大声で叫んでいる場面だ。さらに一段と声を張り上げた大声で(太字になっている)、「人生すべて博打だぞ!」とたたみかける。





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