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TOKYO1968(上)それでも五輪は開催された その4

Japan In-depth / 2021年7月12日 16時58分

TOKYO1968(上)それでも五輪は開催された その4




林信吾(作家・ジャーナリスト)





「林信吾の西方見聞録」





【まとめ】
・1968年1月、東京五輪マラソン銅メダリスト円谷幸吉選手が自ら命を絶ち、国民に大きな衝撃を与えた。





・メキシコシティ五輪ではサッカーで日本が銅メダルを獲得。





・当時国内では東大闘争への注目、経済の発展途上、サッカー自体の認知度の低さもあり今ほどには人々の関心が集まらなかった。





 





1968年は単純に「メキシコシティ五輪開催の年」として語ることはできないのだと、ここまで述べてきた。





しかしわが国では、五輪と深い関わりのある悲劇のニュースが、未だ正月気分も抜けきらぬ国民に大いなる衝撃を与えた。1月9日、1964年の東京五輪銅でマラソンの銅メダルに輝いた円谷幸吉選手(自衛隊体育学校)が、自ら命を絶ったのである。享年27。





直前まで当人は、メキシコシティ五輪における「銅メダル以上」を国民に約束すると、意気込みを語っていたのだが、もともと生真面目な人であったと言われ、他者にはうかがい知ることもできない、大きなプレッシャーを抱えていたようだ。将来を誓い合った女性がいたが、五輪終了までは結婚を認めない、と親族から言い渡され、最終的には破談になったとも伝えられる。





世間が特に衝撃を受けたのは、





「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」





という遺書の一節であったが、





「父上様、母上様、三日とろろおいしゅうございました」





で始まる一文は、その後多くの媒体で引用された。たとえば、高倉健が主演した『駅 STATION』(1981年公開)という映画では、主人公は五輪のピストル競技に参加する警察官、という設定になっているが、この円谷選手が自殺したとの報道に大いなる衝撃を受ける描写がある。その傷心を振り払うかのように、ランニングで汗を流すシーンのナレーションで、遺書が読み上げられるのだ。





この当時はまだ、夏季と冬季の五輪が同じ年に開催されており、2月6日にはフランスのグルノーブルで冬季五輪が開幕したが、18日までの期間中、日本人選手の入賞はゼロ。スキージャンプやフィギュアスケートで日本人選手が存在感を示すようになるのは、1970年代以降である。ただ、記録映画『白い恋人たち』は日本でもヒットし、後年のスキーブームの下地を作ったとも言われている。





メキシコシティ五輪では、サッカーで日本が銅メダルを獲得している。この記録は、未だ破られていない。地元(開催国)メキシコとの三位決定戦は、多くの日本人をTVに釘付けにしたが、日本代表の奮戦もさりながら、観客席に様々な楽器を持ち込み、





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