TOKYO1968(上)それでも五輪は開催された その4
Japan In-depth / 2021年7月12日 16時58分
「ラララ・メヒコ、ラララ・メヒコ……」
と陽気に歌い続けるサポーターの姿に、こんな応援の仕方があったのか、と新鮮な感動を覚えたと記録されている。しかも必死で走り続け、かつフェアプレーに徹する日本代表の姿を見て、途中から「ラララ・ハポン(Japon 日本)」の歌声が混じるようになった。
▲写真 メキシコシティのオリンピックサッカースタジアム(1968年9月) 出典:Keystone-France/Gamma-Rapho via Getty Images
ちなみに、金メダルはハンガリー、銀メダルはブルガリアが獲得している。いずれも当時の東欧共産圏だ。この件については、今となっては少々解説が必要だろう。
五輪は言うまでもなくアマチュアの大会であったのだが、その構想が具体化した19世紀末には、社会主義・共産主義の国家が誕生することなど、想定されていなかった。
しかし、ソ連・東欧共産圏の体制下にあっては、プロのサッカークラブも「国営企業」であって、選手は皆「公務員」なので、西側諸国の基準ではアマチュアに分類されていたのである。この結果、ワールドカップに出てくるような「アマチュア」と本物のアマチュアが戦うことちなり、1960年代の五輪において、サッカーのメダルは東欧共産圏が独占するようになった。世にいうステートアマの問題だが、対応に苦慮したIOCは、1984年のロサンゼルス五輪から、プロの参加を認める方向に舵を切った切った。ところが、なんとFIFA(国際サッカー連盟)が、これをよしとしなかった。理由は簡単で、FIFAワールドカップこそが、サッカーの世界大会として唯一無二の存在でなければならなかったからである。
最終的に、両者の駆け引きの結果、プロの出場を認める代わりに、参加資格を23歳以下に限定することとなった。今も受け継がれているが、このような制限を課せられている種目はサッカーだけである。逆に言うと、そのような中で決勝進出を果たし、三位決定戦で地元メキシコを下して銅メダルに輝いたことは、たしかに歴史的快挙と言えるだろう。
しかしながら、これで日本のサッカー熱が盛り上がることもなかった。
サッカー自体、日本においては野球に比べてずっとマイナーなスポーツで認知度も高くなかった。米国でワールドカップが開かれた際(1994年)、現地の記者が、
「あの、ゴール前に引かれた白線(ペナルティーエリアのこと)は、どういう意味があるのか」
この記事に関連するニュース
-
松坂大輔、銅メダルに終わったアテネ五輪を振り返る「気持ち的にキツかった気がしますね」
マイナビニュース / 2024年9月25日 20時0分
-
デンソー、技能五輪国際大会で金メダル獲得
レスポンス / 2024年9月17日 6時30分
-
サッカー日本代表ユニホームに「何これ?」 地上波中継で興味深々…胸元デザインが話題に
THE ANSWER / 2024年9月6日 21時17分
-
サッカー日本代表ユニホームに「何これ?」 地上波中継で興味深々…胸元デザインが話題に
THE ANSWER / 2024年9月6日 21時3分
-
カズとラモスのひと言で…〝オフト政権〟誕生 日本代表史上初の外国人監督秘話
東スポWEB / 2024年8月28日 14時4分
ランキング
-
1羽賀研二容疑者逮捕…タレント・暴力団幹部・司法書士を結んだ『接点』専門家が指摘する弘道会幹部の狙いは
東海テレビ / 2024年9月26日 21時3分
-
2「満足度No.1」10万円から 広告主に売り込み、消費者庁調査
共同通信 / 2024年9月26日 19時5分
-
3証拠捏造を断罪した無罪判決、捜査機関に衝撃広がる…静岡県警幹部「正直納得いかない」
読売新聞 / 2024年9月27日 0時56分
-
4孤立集落の住民ら、自衛隊ヘリで集団避難…土砂で寸断された道路に「地震の時よりひどい」
読売新聞 / 2024年9月26日 22時13分
-
5両陛下と愛子さま、能登豪雨被害のお見舞いを石川県知事に伝える
毎日新聞 / 2024年9月26日 18時53分
複数ページをまたぐ記事です
記事の最終ページでミッション達成してください