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日本改鋳3「日本の失われた30年と江副浩正氏」続:身捨つるほどの祖国はありや 7

Japan In-depth / 2021年7月7日 0時6分

その後、10年足らずの年月を江副氏は生きた。52歳で逮捕され、判決のときには66歳になっていた。その間も、「江副は依然としてリクルートの発行済株式の30%強を保有する大株主であり、日本有数の資産家だった。」(411頁)





問題はバブルの崩壊だった。「損切が早かった」とある(416頁)が、それでも「信用を補完するため『スポンサー』が必要だった。」(418頁)





ダイエーの中内功の登場である。江副氏は、1992年、リクルート社内の反発を抑えて、455億でリクルートの株をダイエーに売却した。毎日新聞の取材で事態が刻々と変化して行き、江副に惹かれて集まり逮捕後も江副を信じていた取締役達が、リクルート株を売るという江副に「親に捨てられた子供のように傷つき、憤った」場面は、圧巻である。(423頁)





江副氏の株売却なくしてダイエーの登場はあり得ず、ダイエーなくして再建はなかった。それは客観的事実だった。それでも人は心で動く。





江副氏は、GAFAの先駆けだったと著者は考えている。1995年に誕生したデジメという会社のことである。





「ようやく時代が江副に追いついてきた」と題する節の肝は以下の一文である。





「『リクルートの情報誌は、クライアントから、原価と乖離した法外な原稿料を取っています。そんなことができるのは書店やコンビニエンスストアで物理的な棚をリクルートが独占しているからですが、インターネットの時代になればこのアドバンテージが消えて今のような利益は稼げなくなる。われわれが率先してインターネットの商売を始め、潜在的な競争相手に進出する気をなくさせてしまうべきです。リクルートは出版社からインフォーメーション・プロバイダーになるべきです。』」(435頁)





借金返済のための苦しい中で、1995年、「たった7人の小さなチームが『情報革命』のを江副から引き継いだ。」「電子メディア事業部。通称『デジメ』である。」(436頁)





それが実るために資金を注ぎこみ続ける余裕が当時のリクルートにはなかった。リクルートを辞め外に活躍の場を見つけた人々の飛躍を、著者は、「デジメの中核メンバーは空に飛んだタンポポの種が別の場所で花を咲かせるように、日本のネット産業のあちらこちらで、その才能を開花させた。」と表現する。





1995年はWindows95が発売された年であり、のちに「インターネット元年」とよばれる。「その10年前に『紙の情報誌は終わる』と予言した江副が思い描いていた新しい情報産業の姿が、やっとおぼろげに見えてきた。」434頁)著者はベゾスが江副氏の買収した会社で働いていたことにも触れ、その10年前である1985年の時点で江副氏には未来が見えていた、と言う。それが「時代が江副に追いついてきた」という言葉の意味するところである。





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