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英国もソ連も追い出した(中)「列強の墓場」アフガニスタン その2

Japan In-depth / 2021年9月20日 19時0分

そのアフガニスタンでは1973年、当時の国王ザーヒル・シャーが病気療養のためイタリアに出向いていた隙に、旧王族のムハンマド・ダーウードらによるクーデターが勃発。王政が廃止され「アフガニスタン共和国」樹立が宣言された。









▲写真 ザヒール・シャー国王(1973年7月18日) 出典:Photo by Keystone/Getty Images





このクーデターこそが、今日に至る動乱の元凶であると考える人も多く、近現代史のサイトなどでは彼を指して、





「アフガニスタンを地獄に突き落とした男」





などと呼ぶ向きも見受けられる。





ともあれそのダーウード政権も、近代化の名のもとにイスラム主義者たちに対して強硬な態度をとり、その結果、多くのイスラム主義者たちがパキスタンに逃れた。彼らが後に、パキスタンにおいてタリバンが台頭する土壌を形成したわけだが、当時そのような展開を予測できた人はいなかった。





そのような中、1978年4月には親ソ派の人民民主党によるクーデターが起き、国名も「アフガニスタン民主共和国」と改められた。当初からソ連邦が裏で糸を引いたに違いない、と見られていたが、詳細な経緯までは現在も謎のままである。









▲写真 ムハンマド・ダウード大統領(1978年4月28日) 出典:Photo by Keystone/Getty Images





ひとつ確かなのは、ソ連邦は前述のように、周辺諸国を「友好化」することが自国の安全保障に直結するのだと信じていた。さらに、1975年4月にサイゴンが陥落し、インドシナ戦争が共産主義者側の勝利に終わると、





「人民戦争は帝国主義戦争に対して必ず勝利する」





といった、いかにも共産党らしい総括が行われ、この政策に拍車がかかったことだ。





一方では、アフガニスタンやイラン(1979年にイスラム革命が成功)におけるイスラム主義の台頭は、国内に多くのイスラム人口を抱えるソ連邦にとって遠からず脅威になると考えられたに違いない。早いうちに叩いておきたかったのだろう。





かくして1979年暮れ、ソ連軍はアフガニスタンに「援助進駐」を開始した。もちろんこれは、当時のかの国らしいタテマエで、西側諸国は「侵略行為」であるとして一斉に非難の声を上げ、翌1980年のモスクワ五輪ボイコットにまで至ったのである。





それ以上に強く反発したのは、言うまでもなくイスラム圏の人々で、1988年にアルカイダを旗揚げすることになる、オサマ・ビンラディンも当初は一人のムジャヒディン(戦士)として、ソ連軍と戦うべくアフガニスタンに赴いた。





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