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エア・インディア、タタ・グループに復帰 インドの浮揚に一役買えるか

Japan In-depth / 2021年10月11日 23時0分

J.R.D.タタは自ら操縦桿を握り、同年10月にカラチ(現パキスタン)をデハビランド社製の中古小型機のプス・モスで発ち、ボンベイ(現ムンバイ)に降り立った。ボンベイからは、J.R.D.タタに航空事業を薦めた元英国空軍将校のネビル・ビンセントが飛び立った。インド初の航空輸送事業の始まりであった。カラチは当時、英インペリアル・エアウェーズの航空郵便の到着地であった。J.R.D.タタは1929年にインド初の商業パイロット資格を取得していた。





タタ・エアラインズは1934年からボンベイ-マドラス(現チェンナイ)、ボンベイ-デリーなどにも航路を広げ、1938年にはセイロン(現スリランカ)のコロンボへの航路も開いた。





タタ・エアラインズは第2次大戦の勃発で、政府に航空機を徴用され、再出発は戦後となる。同社は1946年に株式を公開し、社名をエア・インディアに変更した。エア・インディアは国際便就航を政府に申請し、翌年にはインド政府が発行株式の49%(さらに2%買い増しのオプション付き)を、タタが20%を保有するエア・インディア・インターナショナルが設立され、ボンベイからカイロ経由でジュネーブに初の国際便を就航させた。機材はロッキードのコンステレーションL-749Aであった。





しかし、1953年、ネルー首相(当時)はエア・インディア、エア・インディア・インターナショナルの国有化を行った。J.R.D.タタにとって、航空事業は単なる事業の域を超えていた。J.R.D.タタはネルーの国有化方針に反対したが、かなわなかった。彼は国有化される前日の7月31日にエア・インディア、エア・インディア・インターナショナルの従業員宛メッセージで、1932年来の歩みを振り返りながら、「基準は高いところに置いてきた」と自負心を示し、自らが育てた民間企業としての両社に別れを告げた。





ネルーは両社の国有化後も、J.R.D.タタに両社の会長職続行を要請し、J.R.D.タタはこれに無給で応じた。J.R.D.タタは両社の経営にことのほか熱心で、グループ企業の幹部から不平が漏れるほどであったといわれる。





J.R.D.タタは1982年、エア・インディア創立50周年を記念して、プス・モスでカラチからボンベイに記念飛行を行った。その際には、皆がJ.R.D.タタに飛行を思いとどまらせようとした。タタ一族と同じく、ササン朝ペルシャ時代に、イスラム教の進攻でペルシャ(現イラン)からインドに逃避を許された「パールシー」(拝火教徒)を出自とする大手財閥、マヒンドラ・アンド・マヒンドラの会長(当時、現名誉会長)でJ.R.D.タタと親しかったケシュブ・マヒンドラはJ.R.D.タタの生誕100周年の2004年、飛行断念の説得役としてJ.R.D.タタの下に行った時のことをこう回想している(TATA REVIEW 2004年特別記念特集号)。「J.R.D.タタは、私を見て、『君が来た理由は分かっている』といったが、J.R.D.タタの決意は固かった。私は(タタ・サンズの本社である)ボンベイ・ハウスに戻り、断念させるとかえって彼の命を縮める、とグループ首脳にいい、同乗パイロット、医師の手配などを指示した」。J.R.D.タタは80歳に手が届こうという高齢にもかかわらず、記念飛行を行った。エア・インディア本社は現在、ニューデリーにあるが、2005年に訪れたムンバイの同本社ビルの入り口脇には、創業者J.R.D.タタの胸像が立っていた。





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