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プーチンを国際法廷に引き出せ 日本は後れとらず制裁主導を

Japan In-depth / 2022年2月27日 23時0分

 ロシアを国際貿易のドル決済から締め出すためのSWIFT(国際銀行間通信協会)からの排除などは見送られたが、事態が悪化した際の切り札として温存される意味あいがあり、状況次第では徐々に発動されていく可能性がある。(編集部注:米英独仏イタリア、カナダの6カ国と欧州委員会は2月26日、ロシアの大手銀行などをSWIFTから排除する追加金融制裁を科すことで合意した)


■ 実害なかったクリミア編入の制裁


 日本政府は、この過程を通じて腰砕けになることなく、強い姿勢を維持していくことができるか。


 こうした懸念が生じるのも、過去の〝有事〟の際、日本政府が強調する〝各国との連携〟が必ずしも機能したとはいえなかったからだ。


 真っ先に思い浮かぶのは2014年、やはりプーチンが南部ウクライナのクリミアを併合した時の対応だ。


 日本の制裁は、ロシア金融機関の新規証券の日本市場での募集、発行禁止、66個人、16団体の資産凍結、武器禁輸などだった。しかし、資産凍結の対象はウクライナ国内の協力者に限定、ロシア要人は含まれず、日本からの武器輸出などはないから、先方は何の痛痒も感じなかっただろう。 


 米欧の各国が、貿易・経済、軍事協力の見直し、エネルギー企業5社の深海、北極油田開発への技術供与の中止などにきめ細かく、実効性のある手段をとったのとは大きな違いだった。 


■「天安門」のG7共同制裁には反対


 1989年の天安門事件後の中国への制裁をめぐる日本の方針は、G7(主要7カ国)の結束を乱すといわれてもやむを得ないものだった。


 日本は第3次円借款は停止したものの、事件直後にフランスで開かれたG7首脳会議(アルシュ・サミット)では、「制裁は中国を孤立化させるだけで、民主化にはつながらない」として反対、そのため共同制裁は見送られた。


 当時、中国の外相だった銭其琛氏が、結束が弱い日本を西側の経済制裁突破口にしようと1992年の天皇の訪中を実現させたと回想している。


 いま振り返ると、日本にとっては悔いの残る決定だったろう。


 古い話だが、1979年秋から1981年初めにかけて続いたイランの米国大使館占拠事件では、米国が経済制裁を課して原油の輸入を停止したため、イランの余剰原油を日本が高値で輸入、「無神経だ」とアメリカ政府からねじこまれたことがあった。いまならあり得ないが、実際にあった話だ。


■ 侵攻前、心許なかった日本の動き


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