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「イスラム暗殺教団」は都市伝説 異文化への偏見を廃す その1

Japan In-depth / 2022年7月13日 23時0分

そもそも十字軍とイスラムが激突したパレスチナ北方と、彼らの拠点であるテヘラン西方とは2000キロ近い距離がある。パレスチナにも配下がいたとは言え、鉄道もない時代の2000キロは、現代の感覚に置き換えれば、地球の裏側の戦乱に等しかっただろう。


その後くだんの要塞はモンゴルによって陥落した(1256年)が、教団そのものはインド亜大陸に活動の場を移して現在も存続している。当主はアーガー・ハーン4世といい、今ではもっぱら慈善活動を行っていると聞く。


とは言え、今に至るもイスラムと暗殺を結びつけて考える向きが欧米にも日本もあることは、遺憾ながら事実である。これはむしろ、20世紀になってから顕著にみられる傾向だ。


典型的な例が、1988年から90年代にかけての『悪魔の詩』騒動だろう。


インド出身で、当時は英国で暮らしていた作家サルマン・ラシュディが1988年に発表した小説で、預言者ムハンマドの生涯を題材としている。







▲写真 自著『悪魔の詩』を手にするサルマン・ラシュディ氏(1992年4月30日) 出典:Photo by Dave Benett/Hulton Archive/Getty Images


英国内では当初から高い評価を得たが、同時にイスラム圏では、ムハンマドの言動を揶揄するような描写があるとして、反発の声が上がった。英国内にもイスラム圏からの移民が多く、絶版を求めるデモや、集会での「焚書」まで行われた。


そして1989年2月、当時イランの最高指導者であったホメイニ師が、著者および出版関係者は死に値するとのファトワー(法的解釈)を公表し、一気に世界的注目を集めたのである。







▲写真 ホメイニ師によるファトワー公表後、ホメイニ師のポスターを掲げ、「サルマン・ラシュディとアメリカに死を」と叫びながらデモ行進するイランの学生たち(1989年2月1日 テヘラン) 出典:Photo by Kaveh Kazemi/Getty Images


とりわけ日本では、1991年7月11日、日本語版の翻訳者であった五十嵐一(いがらし・ひとし)筑波大学助教授が、大学構内で殺害される事件が起きた。


殺害方法が、ナイフで頸動脈を切る「イスラムの殺し方」であったことや、前述の経緯から、警察も当初から狂信者による犯行を疑っていた。事実、出版記念記者会見にパキスタン人の男が殴り込むという事件も起きていたのである。


いずれにせよ殺人という行為が許されるはずはないが、当の五十嵐氏はホメイニ師による死刑宣告を「勇み足だ」として警察による身辺警護も断り、


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