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初代首相もテロに斃れた(下)国葬の現在・過去・未来 その2

Japan In-depth / 2022年9月18日 7時0分

ちなみに首相就任時点での伊藤は44歳。初代首相であると同時に、歴代最年少で、今日に至るもこの記録は破られていない。


ただ、現行憲法下では安倍元首相が最年少(52歳。戦後生まれとしては初)で、これも二人の共通点と言える。


いずれにせよ伊藤は、ロンドンで本格的な英語を学んできたおかげで、明治政府の中で要職を歴任し、ついには初代首相にまでなったのだが、第一次伊藤内閣の命題であった憲法の起草に際しては、プロイセンの世に言う「ビスマルク憲法」を手本とした。


これには伏線があって、伊藤は1871(明治4)年に、公卿・岩倉具視を全権とする大規模な欧米視察団=世に言う岩倉使節団に加わり、欧米と当時の植民地の状況を視察し、各国の政治家とも幾度か意見交換した。


紙数の関係上ごく大雑把な説明でお許しを願うが、当時の米国は、1861年から65年にかけての南北戦争がもたらした政治的混乱が未だ収束しておらず、一方ヨーロッパ大陸では、1871年から翌72年にかけての普仏戦争で勝利を博したプロイセンがドイツを統一し、ドイツ文化圏の盟主の座がウィーンからベルリンに移りつつあった。一方フランスではこの戦争の過程で、屈辱的な講和をよしとしないパリ市民が、市内の各所にバリケードを築いて武装蜂起する、という事態=世に言うパリ・コミューンまで起きている。


日本国内も未だ政治的混乱期にあり、いわゆる不平士族の問題だけでなく、庶民の間にも「徳川様の世の方が……」という気風が根強く残っていた。


民権を重視したフランスや米国の法体系に倣うのでなく、強力な中央集権体制であるプロイセンのそれを手本とすべきで、また、強力な国民統合を実現するためには、天皇を神格化し、学校教育を通じて「日本は天皇を中心とする神の国」であるとのイデオロギーを国民に植え付けるべきだ・・・伊藤らがこうした結論に至ったとして、なんの不思議もない。


もちろんこれには、異を唱える人たちもいた。代表的な例としては、佐賀藩出身の大隈重信らで、


「英国風の立憲君主制を日本にも導入すべきである」


と主張し、伊藤らと対立した結果、最終的に政府中枢から追い出されてしまう。世に言う明治14年の政変だが、大隈は程なく返り咲き、首相にまでなる(第8代、17代)。


当時はまた、自由民権運動も盛り上がりを見せつつあり、私製の憲法草案や政体に関する建白書が数多く提出されたが、伊藤らはこれらの意見など、一顧だにしなかった。


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