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初代首相もテロに斃れた(下)国葬の現在・過去・未来 その2

Japan In-depth / 2022年9月18日 7時0分

伊藤は清国吉林省(現・中華人民共和国黒竜江省)のハルピン市に乗り込んだ。


日露戦争で、日本側は勝利に等しい講和を勝ち取り、もともとロシアが敷設した満州鉄道の権益を得ることになった。とは言え、具体的にどこからどこまでを日本の権益とするのか、細部を詰める必要があり、ロシア側の外交団と話し合うためにやってきたのだ。


普通なら外交使節か市内のホテルで会談が行われるものだが、ハルピンの治安悪化を理由に駅構内、具体的にはロシア側が用意した特別列車の車内での会談と決められていた。そして、日本側の列車からホームに降り立ったところを、群衆に紛れていたアンに拳銃で撃たれた。3発の命中弾を受けた伊藤は、侍医の手当も功を奏さず絶命。享年68。


今更ながらだが、安倍元首相は享年67。非常に近い。


それはさておき、前述のようにテロが起きた状況が不自然であったことから、ロシアの関与が疑われると前々から言われていた。


当人の供述によって、凶器となったブローニング社製自動拳銃2丁を購入した資金の一部を、ロシア人が拠出したことまでは明らかになっているが、朝鮮の親ロシア派との関係などは不明だとされていた。彼は現場でロシア兵に取り押さえられ、日本側に引き渡された。その後、旅順に身柄を移され、絞首刑となる。享年30。


実を言うと前出の韓国人ジャーナリストは、同国で放送された、アンの生涯を描いたドキュメンタリー番組の制作に関わり、日本語文献も含めて相当量の記録に目を通した経験があるという。


「制作会社との契約で、守秘義務のようなものがあるので、詳しくは話せませんが」


と前置きしながらも、ロシアが糸を引いた可能性はきわめて高い、との見方を回答してくれた。


いずれにせよ、伊藤博文がテロに斃れたことにより、独立運動が一挙に活気づいたかと言うと、事実は逆で、アンの目論見は完全に外れた。このテロを受けて時の日本政府は態度を硬化させ、翌1910年、日韓併合となる。


この時期の歴史に関する文献をひもとくと、いずれも「朝鮮」「韓国」の表記が入り乱れてややこしいが、これは、政治体制としては「李氏朝鮮」が正式な呼称だが、国号は「大韓帝国」だったからである。しかしながら日韓併合によって、李王朝も滅亡した。


半島の人々は、名前まで日本風に変えさせられて、それが法的な本名となり、日本語教育を受ける義務まで課せられた。主権はおろか、伊藤の言う「古い文化」まで奪われたのである。


今でもごく一部の日本人の口から、


「日本は朝鮮半島に鉄道を敷くなど、近代化のために巨額の投資をしたが、朝鮮人はそれに対して暴動やテロで報いた」


などという言葉を聞くことがある。ここまで読まれた読者には、多くを語るまでもないが、因果関係があべこべなのだ。


その話はさておき、伊藤の葬儀は1909年11月4日、国葬として執り行われた。当時まだ国葬令は成文化されておらず、天皇の勅許によって国葬とされたのである。


つまりは明治維新の功績などによって、国葬に付された人は他にもいるわけだが、その評価は様々である。


次回はその話を。


トップ写真:伊藤博文(左)と家族  出典:Photo by © CORBIS/Corbis via Getty Images


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