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「林信吾vsアントニオ猪木」娯楽と不謹慎の線引きとは その3

Japan In-depth / 2022年10月24日 23時0分

当時はプロレス中継の視聴率がよかった反面、いや、だからこそ、なのだろうが、あれは台本通りにやっているだけの見世物だ、といった声もよく聞かれた。


いつの時代もアンチはいたわけだが、小中学生の頃の私は、台本の有無はともかく、あんな筋骨隆々たる大男が本気でどつきあっているのだとしたら、連日試合をするなど無理に違いない、とは考えていた。文字通り身が持たないだろう。


実際に、猪木氏の死因は心アミロイドーシスという難病であったが、11998年に現役引退を発表する直前、すでに「血糖値が正常値の5倍」であることを公表していた。


アミロイドーシスというのはアミロイドという特異なタンパクが臓器に付着して機能不全を起こさせるものだそうで、糖尿病ともども遺伝的要因と見る向きが多いものの、高カロリー・高タンパクの食事を続けたことも無視はできないらしい。専門家ではないので詳細までは分からないが。


そうまでして「プロレスこそ世界最強の格闘技である」と証明したかったという、猪木氏の熱意は賞賛するにやぶさかではないが、同時に、空手やボクシングのチャンピオンと戦って勝ったとして、一体なにが証明されるのだろう、という思いは今でもある。


前述のルールの問題もそうだが、煎じ詰めたなら、格闘スポーツと武道の価値観の違いだということになるだろう。


古来、武という漢字を分解すると「二つの戈(ほこ)を止める」なのだという教えがある。


これ自体はまあ「恋とは亦(また)も下心」みたいな言葉遊びなのかも知れないが、勝ち負けよりも精神修養に重きを置くのが本物の武道だという考え方は、普遍的なものだ。


これも前述の著作の中で引用したが、1970年代にヒットした『男組』という劇画(雁屋哲・原作、池上遼一・画、小学館)の中にさえ、


「国籍や外見でなく、精神こそが拳法の正当性を証明するものだろう」


といった台詞が出てくるくらいなものである。


だからこそ今の私は、プロレスや格闘技を見ることを至上の楽しみとする人たちを批判するつもりは毛頭ない。猪木氏の死を悼む人たちの気持ちと、前回述べた、六代目三遊亭円楽師匠の死を悼む私の気持ちは共通するものだろう。


猪木氏はまた、政治家・実業家としての顔を持っていたこともよく知られている。


北朝鮮とのパイプを維持するなどの功績はあったと私は考えるが、いずれにせよ、レスラーとしての知名度のたまものであり、また、今さらこのような表現も気が引けるが。事業の面では他人様にお金の迷惑ばかりかけていたと言われても仕方ないようだ。


亡くなって間もない人について、このような書き方は不謹慎ではないか、という声も聞こえてきそうだが、私はそうは思わない。


プロレスとは多くの人を興奮させるエンターテインメントであり、アントニオ猪木こそは不世出のエンターテイナーであったことを私は認めている。


「元気があればなんでもできる」


というのが氏の定番の名台詞であった。そのような人を送るのに、粛然と喪に服すという態度がふさわしいとは、どうしても思えないのである。


(続く。その1、その2)


トップ写真:東京で行われたアントニオ猪木氏の通夜の様子(2022年10月13日、日本・東京) 出典:Photo by Etsuo Hara/Getty Images


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