1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

ザ・ドリフターズの功罪(上)娯楽と不謹慎の線引きとは その4

Japan In-depth / 2022年10月30日 0時16分

その後1979年に、当時のマネージャーだった井澤健が独立してイザワオフィスを立ち上げた際に移籍した。渡辺プロダクションの先輩でもあり、ドリフの面々が「師匠」と呼んで慕っていたのがクレイジーキャッツのリーダーであるハナ肇で、クレイジーキャッツの「真面目にふざける」という芸風を学んで後のドリフが出来上がるのだが、正式な師弟関係ではない。ただ、メンバーの芸名はハナ肇が名づけた。


いかりや長介は、本名・錨矢長吉だが「ちょうきち」が発音しにくいからか「ちょうすけ」と呼び習わされていたのである。姓は碇矢が難読なので開いた(ひらがな表記にすること)らしい。選挙ポスターなどでおなじみの表記法だ。


加藤茶(本名・加藤英文)と荒井注(同・荒井安雄)も、それぞれ「カトちゃん」「アライちゃん」という呼び名に強引に漢字を当てたものだが、さすがにそこはひとひねりあって、当時の芸能界では


「水にちなんだ芸名をつけると売れる」


というジンクスがあった。水原弘、水前寺清子、舟木一夫あたりからの着想だろうか。


仲本工事の場合、本名は仲本興喜なのだが、理由は不明ながら「コージ」と名乗ることが多かった。工事という漢字を当てたのも、本人であるともハナ肇であるとも言われる。


高木ブー(本名・高木友之助)は、今さら失礼ながら見たままの命名だが、当人は後に、


(一生この名前で呼ばれるのか)


と思ってひどく落ち込んだと、色々な場で語っている。我々も、世紀を超えてこの芸名で親しんできたので、なんの違和感もないが、今なら一種のパワハラ案件になったかも知れない。志村けんについては、後で触れる。


1966年、ビートルズが来日。6月30日と7月1日の公演で前座を務め、一挙に注目度が高まった。嘘か本当か知らないが、ポール・マッカートニーが日本のバンドを初めて見た印象を聞かれ、


「コミカルなステージをやった連中が一番よかった」


と答えたそうである。他に尾藤イサオ、ジャッキー吉川とブルーコメッツなどが同じステージに立った。


彼らは、1960年代にエルヴィス・プレスリーらの影響を受けたロカビリー歌手(バンド)だが、このビートルズ来日公演以降、その音楽スタイルからヴィジュアルまで真似た「グループサウンズ」と称するバンドが次々に世に出て、楽曲もカバーからオリジナルへと変わり、日本独自の洋楽=今で言うJポップが次第に市民権を得て行くのである。


次第に、と述べたのは、そこには苦難の道のりがあったからだ。長髪が汚らしいとか、ロックが好きな子供は不良になるとか、当初は散々な言われようで、NHKなど長きにわってグループサウンズの出演を認めなかった。唯一の例外がジャッキー吉川とブルーコメッツで、その理由は彼らが七三分けにスーツ姿で演奏していたからだと言われている。


この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください