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ザ・ドリフターズの功罪(上)娯楽と不謹慎の線引きとは その4

Japan In-depth / 2022年10月30日 0時16分

いずれにせよ、ビートルズの前座を務めたことでドリフの知名度も一挙に上がったのだが、彼らは「グループサウンズ路線」をよしとせず、演奏しながら笑いを取る、クレイジーキャッツ直伝のコミック・バンド路線をひた走った。もっとも、リードヴォーカル兼ギターの仲本工事、ドラムスの加藤茶らは音楽へのこだわりを捨てきれず、一時は独自のバンド活動をしたこともある。しかしその後、コントで人気が爆発したため、歌や楽器はネタの一部に過ぎなくなった。


そして1969年10月4日、TBS系列で『8時だヨ』の放送が始まる。


最盛期には視聴率50%を記録し、放送終了(1985年9月28日、最終回)から40年あまり経つ現在に至るも、この数字を超えるバラエティ番組は現れていない。


その人気の源泉は、当時の演芸番組(バラエティという言葉が定着するのは、もう少し先の話)としては異例の、回り舞台などを備えた大がかりなセットを組み、そこで緻密に練り上げられたコントを演じたことにある。


1時間の生放送に備えて、計12時間を超すリハーサルを重ねることも珍しくなく、メンバーの時間的・体力的負担は大変なものであった。


結果、最年長メンバーだった荒井注(公式プロフィールでは、いかりや長介より3歳若いことになっていたが、実は7歳もサバを読んでいた)が、体力の限界を理由に脱退を申し出る。1974年3月31日に脱退が決まり、翌4月1日、ボーやだった志村けんが正式メンバーに昇格した。


読者の大半が記憶しているドリフとは、おそらくこれ以降の5人組だろう。ボーヤというのは、付き人とも称されるが、要は雑用係兼見習いといった存在である。


意外に思われるかも知れないが、もともとは新聞業界から出た言葉で、英米の新聞社では雑用係の若者をコピー・ボーイとか単にボーイと呼んでいた。日本では、これが「坊や」とか「子供」になったわけだ。知り合いの新聞記者に聞いてみたところ、今でもそうしたスタッフはいるが、単に「バイト」と呼ばれているらしいが、これは余談。


ドリフにも、複数のボーヤがいたのだが、その中から志村けんが抜擢されたのは、加藤茶が彼のセンスと真面目さを高く評価していたからだと聞く。


荒井注についても、メンバー交代を発表した際のいかりやの口上は、


「荒井はしばらくお休みをいただきます」


というもので、その後も在籍扱いとなっていた。現在に至るも公式には解散していない。


そのドリフは、お笑いの世界にとどまらず日本の社会に、よくも悪くも多大な影響を与えた。


具体的にどういうことかは、次回。


(続く。その1、その2、その3)


トップ写真:加藤茶氏芸能生活50周年祝賀パーティーに出席する仲本工事氏(東京 2011年3月1日) 出典:Photo by Sports Nippon/Getty Images


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