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インドのタタ・グループの積極事業展開

Japan In-depth / 2022年12月14日 19時0分

ジャムシェドジー・タタは綿紡績、水力発電、ホテル、鉄鉱石の採掘・製鉄などと英植民地下の地場資本としては野心的な事業を構想し、推進した。英インド政庁と交渉し、インド科学技術大学院大学(IISc)をインド政府、マイソール藩王と共同でバンガロール(現ベンガルール)に設立することに尽力した。IIScは現在、国立の最高級研究・教育機関とされ学生・院生数は約4000人。2005年12月に取材した折、庭にジャムシェドジー・タタがIIScの模型を手に載せる立像があるのを目にした。


事業の多くは、長男でタタ・サンズの2代目会長となったドラブジー・タタの時に実現した。ドラブジー、次男のラタン・タタに子供がいなかったので、以後は傍系から選ばれ、3代目会長には創業者の妹の息子が就任した。


4代目会長に1944年1月に就任したJ・R・D・タタは創業者同様、先見性に富んだ経営者だった。1970年代央に設立したソフトウエア部門は現在、世界有数のITサービス会社でタタ・サンズの稼ぎ頭のTCSとなっている。


第5代会長のラタン・タタは米コーネル大で建築学を、またハーバード大経営大学院に学び、一時ロサンゼルスで働いていたが、インドに呼び戻され、東部のジャルカンド州ジャムシェドプルのタタ製鉄などで帝王学を受けた。ラタン・タタは上述のドラブジーの次男の養子となったナバル・タタの初婚の相手との間の子だ。


ラタン・タタは1991年にJ・R・D・タタから会長職を受け継ぐ前、事業統括会社タタ・インダストリーズの会長などをしていた。ラタン・タタに1981年11月に都内でインタビューした折「訪日途上のシンガポールで同会長指名を知らされた」と語り、「向こう10年の戦略を立てるのが第一の仕事」と目を輝かせていたのが印象的だった。当時43歳だった。


ラタン・タタはタタ・サンズ会長就任後、インドの経済自由化の波に乗り、海外の企業買収、デジタル・ビジネス進出など積極策を展開した。


ラタン・タタは、パールシーの相応の女性がいないとかで独身を通した。同会長職の定年が迫った2012年、異母弟のノエル・タタではなく、タタ・サンズの株式の18%を有し、パールシーに属するパロンジ・グループのサイラス・ミストリを6代目会長に指名したが、2016年末に業績不振を理由に解任。裁判沙汰になったが、サイラス・ミストリはその後、交通事故で死去した。


そこで、ラタン・タタが2017年1月に7代目会長として指名したのが、TCS社長兼最高経営者(CEO)のN・チャンドラセカランだった。彼は、グループの創業者一族と関係がなく、パールシーでもない。TCSにインターンとして入社し、CEOに上りつめた人物。当時、53歳だった。彼の指揮下で、TCSの株価は3倍となり、利益は4倍になった。時価総額はインド企業で最大となった。


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