平成22年の年賀状「明治の日本、戦後高度成長の日本」・「場所と私、人生の時の流れ、思いがけない喜び」・「紅茶と結石と年賀状」
Japan In-depth / 2023年8月16日 23時0分
磯谷先生が麻酔科の西村先生らと相談し、追加の点滴役が加えられた。しばらくして浮腫みは消えた。
カーテンで仕切られた小さな部屋に移って、回復を待った時間はどのくらいだったのだろうか。前回の手術のときに感じた、暗い空間のなかで、喉が渇いているのに水が飲めず、眠ることも叶わないという底なし沼に引き込まれつつあるような深甚な恐怖感は無かった。あらかじめ磯谷先生に詳しくそのときの状態と恐怖についてお知らせしていたおかげに違いなかった。
ただ、強い尿意があるのに排泄できないという苦しさがあった。磯谷先生に訴えると、尿道カテーテルを入れてくれた。しかし、その挿入がまた痛く、かつ横になったままでは容易には排尿できるものではない。私は中学1年生の夏の臨海学校を思い出した。遠泳の途中に尿意を覚えたらそのまま泳ぎながら出せ、と予め教えられていた。強い尿意を覚えた私はなんども教えられたとおりにしようと頑張った。しかし、できなかった。半ば泣きながら伴走していた船の舷側に片手で掴まり、私はやっと用足しをして隊列に戻った。61年前のことである。
結局、そのままの状態で、ベッドに横になって廊下の天井を眺めつつ自分の病室に連れて戻ってもらい、元のベッドに移してもらった。
術後初めての排尿は、「イテテ」と叫ぶほど痛かった。血が混じってもいた。後日、前立腺の手術をしたことのある友人に痛かったことを話したら、「『イテテ』で良かったね。僕のは『イデデ』だったよ」と慰められた。
しばらくお世話になったのは、尿漏れパッドである。
昔、赤ん坊用のダイパーの特許の紛争を扱ったことがあった。その会社が、実は売り上げの相当部分が大人用なのだと聞いて、なるほどと思ったことであった。液体を吸ってくれる高分子化合物の力。化学の成果である。
そのおかげで、一見ふだんと変わらない生活が可能になる。こうした高分子が発明される前にはどんな措置が講じられていたのか。想像はつく。どんなにか不便で不快であったことか。
しかし、ことは高分子の効用どころではない。
もし江戸時代に腎結石ができていれば、結局はあえないことになってしまったことだろう。昔、NHKの大河ドラマで西田敏行の演じる徳川吉宗が「小便が出んようになってしもうた」と述懐する場面があった。徳川幕府八代将軍にして、そういうことだったのである。21世紀を生きている私は、そのことだけでもなんと有難い目に逢っていることか。
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