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福島県相馬野馬追、地域力の強さを象徴

Japan In-depth / 2023年8月24日 11時20分

当時、伊達家と対抗するため、相馬家が頼ったのは常陸(現在の茨城県)を治めた佐竹氏だった。ところが、関ヶ原の合戦では、佐竹氏と共に中立を守った。戦後、石田三成と親密だった佐竹氏との関係から、西軍に加担したと見なされ、改易された。訴訟を起こし、徳川家康の謀臣本多正信の取りなしもあり、本領を安堵されている。


その後、本多氏が失脚すると、譜代の名門土屋氏から養子を貰い、幕府との関係強化に努めた。第19代相馬忠胤(1637-73)の頃の話である。これ以降、相馬家は「譜代並み」の扱いを受けることとなり、第23代相馬尊胤(1697-1772)の代に、正式に譜代大名へと昇格した。


その後も相馬藩は何度も危機を経験する。日本近世史上、最大の飢饉と言われる天明の飢饉(1782-88)では壊滅的なダメージを受けた。死者は1万6,000人にのぼり、領内の人口は3万4千人にまで減った。赤子を葬る間引きも流行したという。


この状況に危機感を抱いた相馬藩は、他国の農家の次男・三男を移民させて農業の復興をはかろうとした。呼びかけに応じたのが、越中の浄土真宗の門徒たちである。今でもこの地には「番場」など北陸の姓が多いのは、このためだ。


その後、天保の飢饉(1833-9)でも打撃を受けた相馬藩は1845年、二宮尊徳が唱えた「二宮仕法」を導入した。中心的な役割を担ったのは、尊徳の弟子で相馬藩士だった富田高慶である。その中心的思想は質素倹約、協働、互助。これ以降、相馬藩の窮状は急速に改善し、1849年(嘉永2年)には報徳金1,700両が家臣団救済のために貸し出されるまでになったという。


余談だが、明治となって二宮一族は逼迫した。相馬藩は尊徳の孫にあたる二宮尊親一族を相馬へ迎え、相馬の農地改革を委ねた。その後、尊親は1897年(明治30年)に北海道開拓移住団を組織し、現在の中川郡豊頃町に二宮農場を開いた。二宮尊徳の取り持つ縁で、相馬市と豊頃町は姉妹都市となっており、豊頃町からは毎年、野馬追に見学者が訪れる。


幕末でも相馬藩は苦労する。会津藩を筆頭に、東北地方の雄藩は戊辰戦争で敗れ、その後の戦後処理で憂き目を見る。その影響は現在も残る。


相馬藩はそつがなかった。積極的に戦う姿勢を示すことはなく、上手くやり過ごした。仙台藩からの圧力もあり、奥羽列藩同盟に参画したものの、新政府軍が浜通りを北上し、相馬領に近づくといち早く降伏した。戊辰戦争後、軍資金1万両を新政府に献上し、所領は安堵された。


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