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福島県相馬野馬追、地域力の強さを象徴

Japan In-depth / 2023年8月24日 11時20分

この時も相馬家は独自のネットワークを使った。頼ったのは久保田藩(秋田藩)だ。戊辰戦争の際、久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱し、新政府軍に参加した。久保田藩は庄内藩、盛岡藩などと戦い、領内は大きな損害を蒙ったが、新政府軍にとって精強な庄内藩と盛岡藩を引きつけてくれた久保田藩の存在は大きかった。明治となり久保田藩は厚遇される。


実は、最後の久保田藩主佐竹義堯は相馬中村藩の出だ。相馬中村藩第11代藩主相馬益胤の三男である。相馬家は戊辰戦争の窮地を戦国時代以来の佐竹家の縁にすがって生き延びたという見方も可能だ。


1869年(明治2年)、相馬藩は中村藩となり、第13代藩主の誠胤が知事に任命された。1871年(明治4年)の廃藩置県で知事を免職となるが、相馬誠胤は子爵に任命され、貴族として生き残った。


 現在も相馬家は、この地域の精神的支柱だ。例年、野馬追の総大将は相馬家の男子が務める。今年は相馬中村藩主相馬和胤氏の長男である相馬言胤氏(14)が務めた。


 これが今にいたるまでの相馬の歴史だ。繰り返し訪れた危機に、独自のネットワークを活用し、生き延びてきた。多くの徳川家の旗本や譜代大名たちが、徳川家の権威を頼り、幕末から明治にかけて何もしなかったのとは対照的だ。自力で活路を切り拓いた。この伝統は今も引き継がれている。


 福島第一原発事故の被災地は、その大部分が旧相馬藩領だ。この地域は、鎌倉時代以来、様々な困難を克服しながら、強い地域コミュニティを作り上げてきた。阪神淡路大震災と比べて、東日本大震災後の浜通りで孤独死が少なかったのは、このような地域力のためだ。


岸田政権は福島第一原発の汚染水の放出をきめた。折角、復興しつつある浜通りの漁業は、深刻な風評被害を蒙るだろう。ただ、持ち前の地域力を活かして、やがて克服するはずだ。


この地を訪れると、国と地方の関係を考えざるを得ない。江戸時代まで幕藩体制という分権制だった日本は、明治維新で中央集権国家となった。明治政府は内務省が地方を統括した。県知事は中央から派遣され、初代福島県知事(県令)は土佐藩出身の清岡公張だ。第5代の三島通庸は薩摩藩出身で、高圧的施策で福島事件を起こしたことで知られている。


官選知事時代の44人の知事のうち、30人が西国出身だ。うち11人が薩長土肥の出身者である。福島県が中央に「隷属」していたことがわかる。


福島では、県と市町村の間に大きな溝がある。明治維新で、歴史的に別の地域であった会津・中通り・浜通りを合体させた福島県は、150年以上が経過した現在も、いまだ一体化していない。福島では、明治政府が作り上げ、内務省が仕切った国・県という組織と、村落共同体に根ざす市町村は、全く別ものなのだろう。歴史的経緯もあり、相馬は福島県に依存していない。だからこそ、野馬追に県庁関係者が来ていない。総務官僚である中井氏は、このあたりを敏感に感じ取った。


統治体制の変遷とともに、国や県という行政機構は変わる。一方、村落共同体は、そこに人が住み続ける以上、永久に続く。野馬追が1000年にわたり継続されているのは、その証左だ。人口減が続く我が国で、地方の活性化は喫緊の課題だ。野馬追は、日本の地域力の強さを象徴している。地方活性化の参考になる。


トップ写真:相馬野馬追祭の様子  2004 年 7 月 24 日 福島県 相馬


出典:Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images


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