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「知の巨人」横山禎徳氏を悼む

Japan In-depth / 2024年5月25日 11時13分

同時に、付き合いが長くなるにつれ、心の温かさを実感することが増えた。講義で厳しいことを言っても、その雰囲気には優しさを感じるし、勉強会に連れてくるマッキンゼーの後輩や元部下から、「随分、お世話になりました」という話を聞くからだ。





私は、このようなユニークな人材に出会うと、その人物が育った環境に興味をもつ。





横山氏についても、本人に聞くとともに、色々と調べた。





横山氏は1942年に広島市で生まれる。2才の時に被爆したそうだ。ただ、当時の記憶はなかったし、その頃のことを語る横山氏に悲壮感はない。広島出身で、マッキンゼー時代に部下だった堂前宣夫氏(良品計画社長)は、「お父上は地元を代表する実力者」と評する。横山氏も、「幼少時、父親を訪ねて任侠の人がやってきて、玄関で「お控えなすって」と挨拶している光景をみたことがある」と語っていた。恵まれた環境で、大らかに育ったようだ。





横山氏は、地元の名門広島大学附属高校から東京大学へと進み、建築学科を卒業する。当初、建築家として身を立てることを考えたようだ。米国に留学し、ハーバード大学デザイン大学院に留学する。これは1960年代の話だ。今と比べて、円が遙かに安い時期だ。





経済的負担は大きかっただろう。横山氏の留学を父上が支援したという。裕福で、教育熱心な父親だったのだろう。横山氏は「首から下は土方で、頭から上はインテリが理想」と言うが、それは私が抱く父親のイメージだと考えている。





当時、米国ではベトナム反戦運動が盛り上がり、横山氏が留学していたボストンにはヒッピーが大勢いた。「色んな連中と一緒に住んだが、不思議とヒッピーのような連中と気があった」という。詳細は省くが、そのような生活をしていたようだ。横山氏の人格形成には、当時の米国の雰囲気が影響している。





勉強会では、1968年にスチュアート・ブラントによって創刊された『ホール・アース・カタログ』が繰り返し紹介された。バックミンスター・フラーが提唱した「宇宙船地球号」に影響されたもので、既存の権力とは距離をおき、コミューン生活における自給自足に必要な道具、実用知識へのアクセスを提供することを目的としたものだ。ヒッピー思想との親和性が強かったと言われている。





横山氏は、『ホール・アース・カタログ』の共同編集者で、のちに『Wired』を創刊するケヴィン・ケリーの思想も繰り返し紹介してくれた。勉強会のたびに推薦図書をあげるのだが、ケヴィン・ケリーの『〈インターネット〉の次に来るもの』を繰り返し取り上げた。





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