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ペルー フジモリ大統領死去 その数奇な運命

Japan In-depth / 2024年9月15日 19時0分

そのテロを鎮圧したのがフジモリ大統領だった。1990年の大統領選で初当選、就任直後から経済改革を断行し、ハイパーインフレーションに苦しむ経済を立て直すため、国有企業の民営化などを推し進めた。一方で、左翼テロ掃討作戦を強力に展開し成果を上げた。結果、1995年大統領選で再選された。当時、国民の人気は圧倒的だった。









▲写真 ニューヨークのセントレジスホテルで行われた記者会見に臨むフジモリ大統領(当時)1996年5月20日アメリカ・ニューヨーク州 出典:Najlah Feanny/Corbis via Getty Images





筆者がインタビューしたのは、公邸占拠事件後、2000年の大統領選の前だ。おそらく日本語も英語も流ちょうだったと思うが、インタビューはあくまでスペイン語で通した。まっすぐこちらを見据え、終始、余裕しゃくしゃくで質問に答えた。その顔は自信に満ち溢れていた。





しかし、左翼テロとの戦いの中、深刻な人権侵害が行われていたことが発覚する。1991年11月のバリオス・アルトス事件(センデロ・ルミノソを襲撃した国軍が誤認した住民15人を虐殺した)や、1992年7月のカントゥータ事件(同じく国軍が、学生9人、教授1人をテロリストとして拉致し虐殺した)などだ。強権的なテロ掃討作戦の陰には、モンテシノス国家情報部顧問の存在が取り沙汰された。強引なテロ掃討作戦を推し進めるために彼と手を組まざるをえなかったのだろう。





国の経済を立て直し、テロの恐怖から国民を救ったヒーローが、一気に転落したのは、2000年、3期目の任期開始直後の9月14日のこと。





モンテシノス顧問による野党議員買収の現場を捉えたビデオ映像が野党議員によって暴露され、フジモリ大統領は窮地に陥った。モンテシノス顧問は失脚の末、身柄拘束。フジモリ大統領も2000年11月、ブルネイにおけるAPEC首脳会議出席後、東京に到着するや大統領の辞職を表明し、日本に事実上亡命した。









▲写真 ペルーの野党メンバーのグループは、諜報機関の責任者モンテシノスが国会議員アルベルト・コウリに賄賂を贈る様子を映したとされるビデオを放映。ビデオを放映した野党の独立道徳戦線 (FIM) は、ペルー国会議員がモンテシノスに買収され、多数派を確保していた証拠だと述べた(2000年9月14日ペルー・リマ)出典:Photo by Newsmakers/GettyImages





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