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差別は紛争の母である(上) 「開戦の記憶」も語り継ごう その1

Japan In-depth / 2024年12月15日 22時10分

差別は紛争の母である(上) 「開戦の記憶」も語り継ごう その1




林信吾(作家・ジャーナリスト)





林信吾の「西方見聞録」





【まとめ】





・太平洋戦争の開始から、今年で83年が経つ。





・官僚たちは米国に敗戦すると認識していたにもかかわらず、開戦の決定が下された。





・その理由として、白人至上主義が背景にあったと考えられる。





 





「帝国陸海軍は本8日未明、西部太平洋上においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」





この放送により、日本国民が太平洋戦争(この時点では、まだ〈大東亜戦争〉との呼称は存在しなかった)が始まったことを知らされてから、今年で83年が経つ。





臨時ニュースと銘打っていたが、実際は上記の文言の冒頭にあった「大本営陸海軍部発表」が1時間遅れで放送されたものだ。





ちなみに、太平洋上に日付変更線がある関係で、ハワイ現地時間では7日朝であった。米国のフランクリン・ルーズベルト大統領(当時。以下全て同じ)は、





「昨日、1941年12月7日――この日は汚名とともに記憶されるであろうが、アメリカ合衆国は大日本帝国海軍および空軍による意図的な奇襲攻撃を受けた」





と議会で演説。日本に対する宣戦布告を行うよう要請した。





83年後の今月9日には、空母「加賀」乗り組みの整備兵としてこの作戦に従軍し、メディアから「最後の生き証人」と呼ばれていた吉岡政光氏の訃報が伝えられた。享年106。合掌。





毎年夏になると、8月15日の終戦記念日をはじめ、各地で慰霊の催しがあり、戦争体験を語り継ごうとの文言がメディアにあふれる。





しかし、いたって当たり前の話ではあるが、戦争が始まらなければ「敗戦の記憶」もなかったのだ。





さらに、太平洋戦争は真珠湾攻撃によって始まった、と多くの人が考えているが、実際には英軍の支配下にあったマレー半島への奇襲上陸作戦の方が、2時間近く前に始まっている。当初の作戦計画では同時に始まるはずであったが、深夜に空母を飛び立った航空機が編隊を組むのは危険極まりないため、夜明けを待って攻撃目標(真珠湾)に殺到するよう、作戦プログラムが変更され、攻撃開始時刻が1時間半ほど繰り下げられたのである。





ただ、それは本シリーズの主眼ではない。





どうして日本が真珠湾攻撃のようなことをしなければならなかったか。言い換えれば、戦争を避ける道は本当になかったのか。その点をきちんと考察しなければ、本当の意味で戦争の歴史を語り継ぐことに貢献はできないと私は考える。





我々のように戦後生まれで、いわゆる戦後教育を受けてきた世代は、





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