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『シャーマンキング』阿弥陀丸の愛刀・春雨の秘密。その「ありふれた外見」のワケは?

マグミクス / 2020年9月30日 17時10分

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■阿弥陀丸の生きた600年前=南北朝時代の末期

 新作アニメや原画展など、注目の公開情報があいついでいる『シャーマンキング』ですが、今回は独自の視点で作品の世界観や設定を掘り下げていきたいと思います。まずは、主人公・麻倉葉の持霊(もちれい)として活躍する「阿弥陀丸」の生きた時代と彼の愛刀「春雨」についてお話します。原作では第3巻収録の第十九廻で、春雨を狙う蜥蜴郎(とかげろう)が登場し、春雨を生み出した喪助と阿弥陀丸が刀に込めた思いが語られましたね。

 阿弥陀丸は、原作の第1廻が掲載された1998年の時点で「600年前の侍」とされています。最新資料『SHAMAN KING CHARACTER BOOK 原色魂図鑑』(講談社)には、1385年1月6日生まれ、享年24歳と記載があります。

 1385年といえば、室町時代の初期である南北朝時代が終わる数年前です。南北ふたつに朝廷が分裂し覇権を争っていたためさまざまな合戦が起き、原作にあるような野ざらしの遺体や、孤児たち、そして蜥蜴郎のような者たちがあふれていたと思われます。第2廻「待つ侍」に”国中が真っぷたつに分かれての大戦争”とあるのはこのことです。彼が生まれた7年後の1392年に南北は統一されますが、いきなり全ての争いが終わり平和になったわけでもありません。

 なお阿弥陀丸の出生地は不明ですが、ふんばりが丘の首塚で最期を迎えたということは、仕えた領主は関東の人間です。つまりその近辺の生まれでしょう。当時、国の中心は京都ですが、混乱は関東も例外ではありませんでした。

 さて、阿弥陀丸の愛刀・春雨について解説するためには、戦い方の歴史を少し理解しなければいけません。古来から日本の兵士の主流武器は弓でした。馬に乗って弓を射るのです。ところが鎌倉時代になるとそれが廃れます。大きな理由は、武士が貧しくなり馬上から弓を射る訓練をするような経済的余裕がなくなったためです。

 しかし、戦闘スタイルは変わらず騎馬軍団による集団戦なので、武士は代わりに長い棒のような武器を使い、馬上の敵を下に落としたり、上から地面の歩兵を攻撃したりしました。その武器のなかに刀があったのです。ですからこの時の刀は、時代劇で見るようなものより長く大きく、種類としては”太刀(たち)”と呼ばれます。

 太刀は馬上で抜きやすいよう身体に固定せず、鎧の腰の部分につるしていました。また上から下に向けて戦う時のために、刃は下向きにしていました。つまり地面側に刀のカーブを描くように身につけていたのです。

 ちなみに一時の流行として、太刀よりさらに長い”大太刀”というものもありました。長すぎて自分ひとりでは抜けないため、従者に持たせて馬の後を付いて来させるのですが、従者がやられたり逃げてしまうと役に立たず、廃れてしまいました(やる前に気付けよと思いますが……)。これが南北朝時代初期の戦闘です。

■「春雨」はいかにして作り出されたのか?

太刀と打刀の比較。上が「太刀 無銘 古千手院」(刃長77.1cm)、下が打刀の「刀 銘 近江守法城寺橘正弘」(刃長75.5cm)。ともに刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)所蔵

 では、春雨のような刀はいつ生まれたのかというと、ちょうど阿弥陀丸が生まれた頃に現在のような形になって一般化しました。武士や従者がサブウェポンとして持っていた短刀が、いくつかの理由で伸びたというのが由来とされています。

 この刀を”打刀(うちがたな)”と呼び、これが春雨であり、皆さんが時代劇で見る日本刀です。打刀の特徴は腰の帯に直接差して固定することと、太刀とは逆に刃が上を向いていること……つまり刀のカーブが空側を向いていることです。今度サムライを見かけることがあったら、刀のカーブの向きに注意して見てください。なおこのことは騎馬戦が主流ではなくなり、身ひとつで戦う機動性が重要になったことを意味します。

 ただ、孤児である阿弥陀丸たちがこのような経緯を知っていたとは思えません。恐らく、春雨を作った喪助は、合戦場で目にする多くの遺体が身につけていた打刀こそ武器の主流だと思って真似をして、たまたまそれが正解だったということなのでしょう。

 その根拠のひとつと言えるかもしれませんが、春雨は刀としてはシンプルで、柄(つか:持ち手)も鍔(つば:刃と柄の境界にある円盤状のもの)も鞘(さや:刀を入れるケース)も、どこにでもありそうなデザインです。これらをまとめて拵え(こしらえ)と言いますが、この部分はファッションなので、いかにカッコ良くするかが大事です。

 しかし自慢の逸品であるはずの春雨に気を遣っていないのは、刀を独学で生み出した喪助は、そういうものだと知らなかったのでしょう。その辺に転がっている安い刀の真似をしただけだったのです。もっとも恐らく彼も領主に仕えてからは知識を得たでしょう。それでも春雨に手を入れなかったのはすでにそれが彼らの人生を象徴するものだったからです。そう考えると「どこにでもありそうなデザイン」にこそ、春雨の意味があると思えてきませんか?

 さて、これより詳細な春雨の形状については……残念ながら鑑定も鑑賞もすることはできません。原作では当然シーンによって刀の形状が変わりますし、刃文も省略されているからです。しかし春雨が生まれた時代背景や彼等の人生を紐解いていけば、もしかしたらこうだったかも……という想像を巡らせることはできるかもしれません(「シャーマンキング展」でも、モデルとされる刀が展示されていました)。今回の解説ではいろいろ省略しているところもありますので、もしも興味を持った方がいれば、この説明を入り口に日本刀について深く掘り下げていただけたらと思います。

(タシロハヤト)

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