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東西ドイツ統一からまもなく30周年!分断~統一の歴史をおさらい

楽天お金の総合案内 みんなのマネ活 / 2020年9月25日 10時0分

東西ドイツ統一からまもなく30周年!分断~統一の歴史をおさらい

東西ドイツ統一からまもなく30周年!分断~統一の歴史をおさらい

2019年、ベルリンの壁崩壊から30年が経過しました。そして、東西ドイツ統一からまもなく30年周年を迎えます。今更聞けない東西冷戦からドイツ統一、更に統一後のドイツについて、学んでいきましょう。

東西ドイツ分断の歴史

東西ドイツ統一前、ドイツは東西に分断されていました。なぜドイツが分断されたのか、どのようにベルリンの壁が設置されたのか、順を追って解説します。

 

●第二次世界大戦後の4国分割占領




第二次世界大戦でナチス・ドイツが敗れたあと、ドイツはアメリカ、フランス、イギリス、ソ連の連合国4ヶ国によって占領されました。1949年までの4年間、連合国はドイツの非ナチス化、民主化を目的とし、それぞれの占領地を管理しました。

 

当時の首都ベルリンも4ヶ国によって分割占領され、アメリカ・フランス・イギリスの占領地が西ベルリンに、ソ連が占領した地域が東ベルリンになります。西ベルリンは東ドイツ内の飛び地となりました。

 

●東西冷戦とベルリン封鎖


 

第二次世界大戦後、アメリカ(西側)とソ連(東側)を代表国とする東西の冷戦が本格化するとドイツにもその影響が及ぶようになりました。1948年2月にアメリカ、フランス、イギリスの占領区(西側)の統合が発表され、ソ連が占領していた東側との対立が本格化します。ドイツの早期復興を目指した西側と、厳しい管理を強いたソ連の東側では管理方針に大きな違いが生まれていました。

 

ソ連は、西側の管理下にある西ベルリンへの交通を制限していましたが、西側が通貨改革により新ドイツマルクを発行し始めたことに激怒し、ついに西ベルリンを封鎖しました。西ベルリンを封鎖すれば、食料等の調達ができなくなり、アメリカ、フランス、イギリスは西ベルリンから撤退せざるを得なくなると考えたのです。これがベルリン封鎖です。ベルリンの壁が建設されるのはもう少しあとのことになります。

 

●東西ドイツの分断


 

ベルリン封鎖後も大空輸作戦により、西ベルリンに物資を届け続けることで西側は西ベルリンを守りました。1949年5月、ソ連は西側のベルリンからの撤退を諦め、封鎖を解除しました。

 

その直後、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、それに対抗するように東側もドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国を宣言します。ドイツは東西に分断され、資本主義の西ドイツと社会主義の東ドイツは別々の道を歩むことになります。

 

東西ドイツの分断は、西側にアメリカ、東側にソ連という大国が控えていることもあり、世界を二分する前線となりました。中でもベルリンは、東ドイツ内にある東西対立の最前線として、当時最も危険な地域であったと認識されています。

 

●ベルリンの壁設置

 

 

東西ドイツの統治方針の違いは顕著で、ドイツの復興を推し進める西ドイツの生活は次第に豊かになり、ドイツの復興を妨げるような政策をとっていた東側の生活は次第に厳しくなっていきました。

 

そのような政策や生活の違いから、東ドイツの人口の多くが西ドイツへ亡命するようになりました。これを食い止めるため、1961年に東ドイツ側が講じた策が有名なベルリンの壁の建設です。ベルリンの壁は、西ベルリンをぐるりと一周するように設置され、その長さは約155㎞にも及びます。

東西ドイツが統一されるまで

西ベルリンを取り囲むベルリンの壁によって分断された首都ベルリン。統一には長期間を要すると思われていましたが、思いがけず早いスピードで東西ドイツが統一されることになります。その陰には、西ドイツの首相を務めたヴィリー・ブラントの存在がありました。

 

西ドイツ、ブラント首相の東方外交

 



それまで西ドイツは、東ドイツの存在を決して認めてきませんでしたが、1969年に西ドイツの首相となったブラントは、東ドイツの存在を事実上認め、東ドイツを始めとする東欧諸国との関係正常化に尽力しました。

 

その功績は大きく、1973年には東西ドイツが同時に国連に加盟することになったのです。ここから東西ドイツは統一に向けて大きく動いていくことになります。

 

東ドイツの経済破綻、西ドイツへの移住

 

 

1980年代には東ドイツの経済が破綻したことなどから東ドイツ国民の西ドイツへの移住が増え、東西ドイツ統一の気運が加速していきます。

 

ベルリンの壁崩壊、東西ドイツ統一へ

 



東ドイツ国民の大量移住を受け、東ドイツの政府が事実上の旅行自由化ともとれる規制緩和を発表したことで、ベルリンの壁付近に国民が殺到し、国境検問が解放されました。その翌日、1989年11月10日にベルリンの壁の撤去作業が開始されました。これがベルリンの壁崩壊と呼ばれる歴史的な出来事です。

 

ベルリンの壁崩壊により、1961年の壁着工から28年を経過して東西ドイツ分断の歴史は幕を閉じました。この年、ソ連陣営にあった東欧の共産主義国が次々に民主化を果たします。そして翌1990年10月3日、東ドイツが西ドイツに吸収され、ついに統一ドイツが成立しました。

統一後のドイツはどう変わった?

統一後のドイツはどう変わった?

分断されていた当時のドイツは、東西で大きな経済的格差があり、統一後も格差を解消できずにいました。これにより、統一後のドイツは長期の不況を経験することになります。不況による生活は厳しく、分断されていたほうが良いと語る人もいたほどです。

 

統一後の30年間に世界的な金融危機などもありましたが、ドイツ経済は徐々に景気回復の兆しを見せ、今ではEUの中心的な役割を担うまでに成長しました。ドイツの主要株価指数のDAXは当時から右肩上がりに上昇し、コロナ禍にあっても復調の兆しを見せています。DAXの値動きは楽天証券のマーケット情報でも確認できます。

統一から30年 旧国境地帯の今

統一から30年 旧国境地帯の今

東西ドイツの国境地帯は、かつては国民の逃亡を防ぐため鉄条網や地雷、バリケードが張り巡らされていました。

 

 

東西ドイツが統一されてからバリケードなどは撤去されましたが、長い間人の立ち入りが禁じられていた地帯であるため、旧国境付近には様々な植物や動物が生息しています。ドイツ連邦環境省は、旧国境沿いの地域を「グリーンバンド」と指定し、その地域の自然保護に取り組んでいます。

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