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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第45回 【茂吉】文字と文字盤(2) どこにもなかった文字

マイナビニュース / 2024年7月9日 12時0分

画像提供:マイナビニュース

フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○ふたつ目の文字盤「実用第1号機文字盤」

1925年 (大正14) に初めて「試作第1号機文字盤」を製作した茂吉は、印字してみてすぐさま、文字盤を「大きな壁」と感じていた。文字の形が崩れている。そのままでは、邦文写植機の実用化はむずかしいだろう。

そこで茂吉は、写植機用レンズの計算が一段落した1928年 (昭和3) はじめごろ、実用第1号機の開発がすすめられるかたわらで、第二弾の文字盤製作に取り組むことにした。1929年 (昭和4) に完成し、同年9月から翌春にかけて共同印刷や秀英舎などの印刷会社に納品した実用機に搭載された、「実用第1号機文字盤(仮作明朝体)」――のちに5社から「この文字では使えない」と評された文字盤である。

実用機搭載のための文字盤製作をふりかえり、『石井茂吉と写真植字機』にはこう書かれている。

〈どうしても、そのための文字 (筆者注:写植のための文字) が必要になった。茂吉はこれにも手をつけた。どこにもそんな文字はなかったし、やってくれるところがなかったからである〉[注1]

なぜ「どこにもそんな文字はなかった」し「やってくれるところがなかった」のだろうか。
○「どこにもなかった」理由

1935年 (昭和10) 5月15日に開催された印刷雑誌主催の座談会「活版及活版印刷動向座談会」[注2] で、印刷雑誌社の郡山幸男に「写真植字機の書体の経歴」をたずねられた茂吉は、こう話している。

〈あれは初めから計画を樹ててやったのではないのです。実は、研究を進めてゆくうちに金につまって、立派な技術をもっている人に丹念に書いて貰うことが出来ず――なにしろ金につまりましたので…… (笑声) 、私が書いたのです。私の技術で出来る限りのものを作った結果でして、この結果の批判がどうかということは、出来てみる迄は分からなかったのです。最初作ったものはどうも感心しなかった。最初共同、秀英、日清、凸版四社で採用して貰った頃のは、満足しなかった。何とかせねばならぬとは考えましたが、結局、自分でこつこつやらねばならなかったのです。数年間文字ばかり書いていました (後略) 〉[注3]

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