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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第45回 【茂吉】文字と文字盤(2) どこにもなかった文字

マイナビニュース / 2024年7月9日 12時0分

文字の研究に着手することになったのは、計画的ではない。行きがかり上、自分自身でやらなくてはならなくなった。茂吉は「金がなくて立派な技術をもっている人に頼めなかった」と言っているが、この時代、そもそも茂吉が求めるような文字――印刷用の明朝体やゴシック体などを描ける人は、ごくわずかしかいなかった。それは、活版印刷がまだ「電胎母型の時代」だったからだ。

活版印刷の時代をふりかえるとき、ひとくくりに「金属活字の時代」とされがちだが、書体制作の観点からみれば「種字からつくる電胎母型の時代」と「ベントン彫刻機 [注4] による彫刻母型の時代」とに分けられる。日本では明治はじめから戦後まもなくまでがおもに「種字からつくる電胎母型の時代」、第二次世界大戦終戦後の1949年 (昭和24) ごろからが「ベントン彫刻機による彫刻母型の時代」となる。書体制作、文字のデザインのしかたがおおきく変わるのだ。

戦後の「ベントン彫刻機による彫刻母型の時代」においては、書体制作はまず約5cm角の紙に筆記具で、活字原寸ではなく拡大サイズで原字を描くところからスタートした。しかし、茂吉が文字と文字盤の研究に取り組みはじめた昭和初期においては、本連載前回でもふれたように、種字彫刻師が原寸使用を前提に鏡文字で凸刻した種字をおおもとの型として、活字がつくられていた。つまり1928年 (昭和3) の段階では、「明朝体を紙に拡大原字で描く」ことは一般的にはおこなわれておらず、それができる人は日本にごくわずかだったのである。「紙に拡大原字を描く」方法が一般的になるのは、ベントン彫刻機、そして写真植字機が普及してからの話だ。[注5]

楷書や行書、隷書といった筆書体であれば書家に原字をたのむ方法もあったが、明朝体にかんしては、まさに〈どこにもそんな文字はなかったし、やってくれるところがなかった〉のだ。[注6]

このころの茂吉は、印刷業界とのつながりもまだ薄く、活版印刷についても疎い。おそらくはほとんど独学で、文字 (書体) の研究に取り組んだのだろう。「やってくれるひとがいなければ、みずから研究し、手を動かす」。写植機開発の第一の壁だったレンズ製作もそうだった。茂吉のその一面が、文字と文字盤についても発揮されたのである。

(つづく)

[注1]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.103

[注2]「活版及活版印刷動向座談会」『印刷雑誌』1935年5月号、印刷雑誌社、1935 pp.14-26

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