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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第48回 【茂吉】文字と文字盤(4) 「明朝体」の完成

マイナビニュース / 2024年8月27日 12時0分

画像提供:マイナビニュース

フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○第三弾文字盤の製作に向けて

茂吉は、文字の勉強をはじめた。活字の清刷りをそのまま複写した第一弾「試作第1号機文字盤」(1925年、大正14) も、清刷りを4倍に拡大して墨入れして修整し、もう一度縮小してつくった第二弾「実用第1号機文字盤 (仮作明朝体) 」(1929年、昭和4) も、活版印刷のための活字をもとにした文字盤は〈できたものは感じが全然ちがう。これは不思議だと思ってどこが違うのか、どうすればよいのかと真剣に取組んでみました〉[注1] 。茂吉は〈活字を見さえすれば筆法を注意し、築地と秀英の違いなどを研究し〉 [注2] 、写真植字機のための原字を自分の手で描きすすめた。

文字盤のための原字をみずから手がけるようになった背景には、だれもそれができる人がいなかったということがもちろんある。しかしもうひとつ、茂吉が「自分で描こう」とおもった裏付けとして、おそらく彼の書の腕前があっただろう。本連載第3回「京北の麒麟児」でもふれたが、茂吉は幼いころから習字が上手だった。京北中学に通っていた17歳のころには、大日本選書奨励会主催の第14回選書褒賞授与式において、受賞者総代として祝辞を述べた記録も残っている。[注3]

原字を描くのは、手のかかる作業だった。茂吉が根をつめて取り組んでも、1日数文字を仕上げるのがやっとだった。[注4] 実用機の文字盤には漢字約5,000字を収録すると決めていた。まこと地道な作業である。

第三弾の文字盤でもやはり、築地活版の12ポイント明朝体を参考にした。写研の社史のひとつ『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』には、つぎのように書かれている。

〈 (前略) 明朝の完成には三年の歳月を要した。築地一二ポの文字の骨格は生かしながらも、文字の縦線、横線の比率をまず問題にした。築地の一二ポイント書体は、築地の他の大きさの活字と比べれば洗練されている書体ではあるが、縦と横の線の比率が大きく、つまり縦の線は太く、横の線は細かった。築地を模した写真植字の明朝も、縦の線は太く横の線が細かった。そうなると、写真処理の際、どうしても横の線がとびやすくなる。そのため、横線を太くし、起筆部に打ち込みを加え、力強さを出そうとした。横の線をやや太くしたので、そのままだと文字全体の黒みが強くなり、つぶれやすいので、縦線を細めた。それだけでなく、毛筆の起筆、終筆の感じを加えた。縦と横の太さ (筆者注:の差) が築地にくらべると小さくなり、スマートで洗練された書体となった。また「仮作明朝」に比べると力強く、横線がとぶことがなくなった〉[注5]

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