メルケル首相の東京講演
ニューズウィーク日本版 / 2015年6月18日 15時30分
二〇一五年三月九日、ドイツのアンゲラ・メルケル首相の訪日にあわせて、築地の朝日新聞社にある浜離宮朝日ホールにて、メルケル首相の講演会が開かれた。幸い私もこの講演を聴講することができた。今年は第二次世界大戦終結七〇周年であり、安倍首相が八月に首相談話を発表することが想定されていることからも、歴史認識をめぐるさまざまな主張が激しく飛び交っている。とりわけ、同じく敗戦国として比較されることが多く、またこれまで歴史と向き合ってきたと高く評価されることの多いドイツの首相ということもあって、七年ぶりに訪日したメルケル首相の講演は大いに注目された。この講演についてはインターネットでも配信されて閲覧することが可能であり、また翌日の朝日新聞の紙面では講演の全文が掲載された。
さて、メルケル首相はどのような発言をするのだろうか。ちょうど三〇分ほどの講演を同時通訳の言葉を通じて聴いて、意外な印象を受けた。というのも私の想定とは異なり、歴史認識に関する言及が少なかったのである。それもそのはずで、ドイツの首相に求められていることは、歴史的正義を世界に広めることではなく、ドイツの国益を実現することだからだ。
メルケル首相が講演の中で強調したのは、敗戦国として出発したドイツと日本は、「自由で開かれた国々や社会とともに、自由で規範に支えられる世界秩序に対して、グローバルな責任を担うパートナー国家」である、ということであった。メルケル首相は、現在起きているウクライナ情勢や、東シナ海や南シナ海の情勢にも言及した。すなわち、「日本とドイツは、国際法の力を守るということに関しては共通の関心があります。それはそのほかの地域の安定にも関連しています。たとえば東シナ海、南シナ海における海上通商路です。その安全は海洋領有権を巡る紛争によって脅かされていると、私たちはみています。」さらに続けて、「小国であろうが大国であろうが、多国間プロセスに加わり、可能な合意を基礎にした国際的に認められる解決が見いだされなければなりません。それが透明性と予測可能性につながります」と語る。これは想像以上に、中国に対して厳しい言葉であった。
というのも、中国政府はこれまで、南シナ海の領土問題はあくまでも中国と相手国との間の二国間で解決するべき問題だと主張してきた。そして、アメリカや欧州連合(EU)のような「第三者」がそこに介入することを、厳しく批判してきた。ASEAN諸国と中国との間で二〇〇二年に締結した「南シナ海における関係国の行動宣言(DOC)」に関して、この問題がASEAN地域フォーラム(ARF)で議題とされることに、これまでたびたび抵抗してきた。それにも拘わらず、メルケル首相は中国がそのような合意を尊重することを求めているのである。そのような立場は、日本政府がこれまで繰り返し主張してきたことであった。だからこそ、メルケル首相は、日本とドイツが「国際法の力を守るということに関しては共通の関心があります」と述べ、両国が「グローバルな責任を担うパートナー国家」と論じたのであろう。ウクライナにおける力による現状変更のみならず、南シナ海でのそのような海上通商路をめぐる現状変更的な行動をも批判するメルケル首相の発言は、当然ながら中国政府にとってはきわめて不愉快なものであろう。中国は最近、主権を争う南シナ海の島嶼において、これまでのDOCにおけるASEANとの合意を反故にして、一方的に滑走路を建設している。南シナ海を、自らの管理下に置こうとしているのだ。メルケル首相の発言は、そのような中国の行動を牽制するものであった。
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