メルケル首相の東京講演
ニューズウィーク日本版 / 2015年6月18日 15時30分
ところが、翌日の朝日新聞一面では実におかしな表現が掲載されていた。そこでは、「踏み込んだメルケル氏」という見出しをつけて、「メルケル首相が今回の訪日で歴史認識にここまで言及するとは、事前には予想されていなかった」と書いている。「過去の総括、和解への前提」という見出しをつけて、まるでメルケル首相がもっぱら歴史認識問題に焦点を当てて講演を行ったかのような印象を読者に与えている。しかし、そもそも講演ではアジアの歴史認識問題には触れていない。メルケル首相がそれに言及しなければならなかったのは、司会をした朝日新聞の西村陽一氏が歴史認識問題について彼女に質問をしたからだ。まじめなメルケル首相は誠実に、その質問に答えている。主催者であり、司会役をしているにも拘わらず、冒頭で強引に東アジアの歴史認識問題についてメルケル首相に対してアドバイスを要求して、それに返答したことをもって、「歴史認識にここまで言及するとは、事前には予想されていなかった」と紙面で書くのは、いくらなんでもひどい。それでは「自作自演」ではないか。それはまた、あくまで当事者間の対話や平和的な解決を求めて、「アドバイスする立場にない」と謙虚な姿勢を貫いたメルケル首相に失礼であろう。
ドイツが歴史認識問題をめぐって謙虚な態度を示しているのにはもう一つの理由がある。メルケル首相が東京に滞在していた三月一〇日、地球の裏側のギリシャの議会では、選挙で勝利を収めた極左政党のチプラス首相が、第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領による損害の賠償を求める考えを議会で示した。パラスケボプロス法相は、もしもドイツがこれに対して真摯に対応しなければ、ギリシャ国内のドイツ政府の資産を差し押さえるつもりがあるとまで述べた。チプラス首相は、「国民に対する未解決の問題が解決されるように努める」と述べ、「戦後賠償は未解決」との立場を強調した。
これは、ギリシャの債務問題をめぐってドイツが緊縮財政を強く求めていることへの反発であることが明らかだ。また、今後のドイツ政府との交渉を有利に進めるための、ギリシャ政府の苦し紛れの政治的なカードであろう。一部の日本人が安易に賛美するほど、ドイツが抱えている歴史認識問題とは単純なものではないのだ。ドイツにはドイツの難しい問題が、数多くある。相手の立場を深く理解することが、よりよき関係を構築する出発点ではないだろうか。
[執筆者]
細谷雄一(慶應義塾大学法学部教授)
1971年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門は国際政治学・外交史。北海道大学法学部専任講師、敬愛大学国際学部専任講師を経て現職。著書に『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社、サントリー学芸賞)など。
※当記事は「アステイオン82」からの転載記事です
『アステイオン82』
特集「世界言語としての英語」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
細谷雄一(慶應義塾大学法学部教授)※アステイオン82より転載
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