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同胞の部屋探しを助ける中国出身の不動産会社社長(前編)

ニューズウィーク日本版 / 2016年4月19日 17時15分

 1990年10月、山と積んだ荷物を担いで成田国際空港に着いた。荷物の中には、洗面器になべに布団と家財道具はなんでもあった。さらには「紅星」ブランドの粉ミルクも10袋ほど持ち込んだ。迎えに来た人が「なんでこんなに多くのものを」と驚いていたが、見知らぬ異郷で暮らす私にとって、どれも最初に生きるための必需品だったのだ。

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 日本に来たばかりのころは、本当に苦しかった。ある居酒屋で皿洗いのバイトをしたが、身長180センチの大男が腰をかがめて山と積まれた皿を洗うのは、なんともお先真っ暗な思いがした。人生の価値がどこにあるのか、わからなかった。中国では名門とされる瀋陽薬科大学を卒業してから、中国科学院〔中国トップレベルの科学技術研究機関〕の衛生研究所に配属されて働いた。生活面での条件もよく、父の関係を頼れば、官職につく道も敷かれていた。なんでまた見知らぬ場所にやってきて、皿洗いをしなければならないのか。将来はどうしよう? 困惑する一方で「数年我慢して進学し、箔をつけて帰国するぞ」と自分で自分をなぐさめた。



 来日当時、住んでいたのは学校の寮だったが、ある日突然、寮が閉鎖されてしまい、荷物を背負って住みかを探すほかなかった。だが、日本語のできない外国人が部屋を借りるのは、きわめて難しい。公園のベンチで寝ようと準備までしたのだが、幸いある友人が私を引き取ってくれたのだった。のちに妻が(当時はまだガールフレンドだったが)中国から来日し、私はようやく家賃3万円、8畳一間の古いアパートに引っ越した。バスルームもエアコンもなく、夏の暑い盛りには室内温度は30度以上に達し、妻の顔には水ぶくれができてしまった。本当に耐えられなくなり、思い切ってエアコンを買った。

 いま振り返ってみれば、中国での恵まれた条件をほうり出し、キッパリ出国して奮闘してきたことは少しも後悔していない。これもまた、運命がそうさせたと信じている。もし中国に残っていたら今ごろふつうの役人になり、汚職をせずとも他の役人と同じ流れになっていたろう。だがそのような生活は、決して私が求めるものではなかったのだと思う。

不動産業を選んだのは偶然だった

 日本語学校を卒業後、千葉大学大学院に進学し、2年後に修士号を取得した。引き続き博士課程に進みたかったが、指導教官が「見たところ君は学問をやるタイプではない。友人の会社を紹介するから、いっそのこと就職してはどうか」という。それで教官が薦めたその貿易会社に入社した。

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