いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く──プルーフ・オブ・ライフ
ニューズウィーク日本版 / 2016年5月23日 15時45分
『プルーフ・オブ・ライフ』
話がちっとも現地にたどり着かないじゃないか、というお嘆きごもっともである。
いざ書いてみると実際、前もって説明しておかなければならないことがいくつもあるのだ。
だがそれでいい、というのが俺の方針である。
ジャーナリストの方法でなく、あくまで作家のやり方で脱線や私的こだわりを綴っていくつもりだから。
で、そういうことでいうと、「きちんと安全を確保出来ると判断しなければ人員を送りません」と言っていた谷口さんから、ハイチ出発の一週間ほど前に事務所に届いた連絡のことを記しておきたいのである。
俺しか知り得ない単語を紙に書き、封筒に入れて渡して欲しい、というのであった。
その紙を『プルーフ・オブ・ライフ』と呼ぶことも、同時に事務所には伝えられた。
生命の証明。身元の証明。
どういうものかよくわからないのだが、マネージャーと一緒にその使い道を考えてみて、俺は吹き出してしまった。
要するにそれは、俺が誘拐された場合にしか用途がないのである。つまり俺の行方が不明になり、ある集団から連絡がある、と。そうしたケースにおいて「ある単語」がやりとりされ、実際に彼らが俺の身柄を確保しているかどうかがわかるというわけだ。
そうか、ジャーナリストというのはこういうことを日常茶飯の事としているのかと俺は感心したし、谷口さんたちの世界でいう「安全」という言葉にはそのような仕組み(本当に誘拐されたかどうかわかる)が入っているのかと認識の違いに思わず笑いが出たのだ。
で、俺しか知り得ない単語というのがまたけっこう難しいのだった。好きなコーヒーの銘柄とか、昔飼っていたハムスターの名前とか、モンティパイソンの中で一番好きなコントとか、そういう瑣末なところにしか自分を証明する言葉がないことに、俺は人間の不条理を感じた。
そしていざ誘拐でもされた場合、俺は監禁された部屋の中で「コント 死んだオウム」などと答えなければならないのかと思うと、その未来の自分と周囲の悪党の姿がおかしくて仕方がなく、しかもそんなもしもが起こる可能性への緊張がなおのこと俺の腹をくすぐった。
↑こちら簡易な契約書
さてこうして三種類のワクチンを打ち、『プルーフ・オブ・ライフ』を封筒に入れて渡し、取材に関しての簡単な契約書を『国境なき医師団』と交わした俺は、冒頭の看護婦さんとの会話のあと、盟友みうらじゅんとの実にくだらない対談仕事(ほとんど無駄話)をすませて夜の寂しい羽田へ向かった。
ロスアンジェルス空港へ行き、そこからマイアミ空港へ乗り継いでハイチのポルトー・プランス空港まで、計二十時間あまり(すべてアメリカン航空)。
何が待ち受けているのか、怠惰な俺は同行者谷口さんがあらかじめ送ってくれていたメモを読んでおらず、無知にもほどがあった。
ただし、直前に外務省の海外安全情報だけは軽く覗いてあった。
これを書いている今はハイチ全域「十分注意してください」だが、俺が見たときは首都ポルトー・プランスだけ危険レベルが高く、「不要不急の渡航は止めて下さい」という色になっていたと思う。
続く
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう
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