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沖縄の護国神社(4)

ニューズウィーク日本版 / 2016年8月16日 11時10分

 一九七九年の正月とは、沖縄戦の三三年忌が明けた正月であった。

 事務局長・加治順正の中では「三三年までは戦没者と遺族のための神社」という意識が強く、派手なことを控えたい気持ちがあった。三四年目のこの正月、社史には「マスコミの利用が奏功した」と記録されている。前年までは町中の電柱に神社関係者や家族でポスターを貼ってまわる程度だったが、この年からラジオ、テレビ、新聞を使った宣伝を始めた。「お正月は護国神社へ」「初日の出を拝める神社です」などのコピーをつけて広告を打ち、周囲は「神社がこんな宣伝をするなんて」と眉をひそめたが、宣伝効果を見て他社も追随した。

 一九八二年からは、花火まで打ち上げた。新年に日付が変わる瞬間、干支にちなんだ仕掛け花火に点火して人々を沸かせた後、新年祭の式典が始まる趣向だったらしい。なかなか楽しそうだが、七年ほど続けて人気イベントに成長した頃、消防署からの注意と昭和天皇の病気による自粛をきっかけに以後は取りやめになった。

 正月の花火はなくても︑初詣の露店が出ることが知られ、自粛の翌年以降も初詣の参拝者は増え続けた。二〇〇三年一月に義父が亡くなる直前、初めて初詣の参拝者数が波上宮を抜いて県内一位になった。



 その八月には沖縄都市モノレールが開通して神社まで徒歩五分の駅が二つでき、神社のある大型公園の整備も進んだ。「日本の沖縄県」意識が定着し、内地からの移住者も増え、沖縄では少なかった安産祈願や七五三なども年ごとに賑わいを増す。

 今年二〇一六年正月の参拝者数は約二六万人(公式発表)。縦に長い沖縄本島の人口が一〇〇万人少しであることを考えると、驚くべき数である。迎える神社側は通常の職員に加えて、臨時アルバイトを一〇〇名以上も採用して対応する。内地の有名な神社に比べれば穏やかなものだが、境内は人で埋まり、昇殿参拝も途切れず続く。神社復興からわずか半世紀ほどで、正月時期の行楽としての初詣はすっかり定着した。

 一方、護国神社の「慰霊の場所」としての役割は薄れつつある。

 特に沖縄戦から五〇年の一九九五年、摩文仁に「平和の礎(いしじ)」ができた影響が大きい。日本軍に徴用されたアジア人はもちろん米軍人の名前も刻み、宗教性を排した新しいモニュメントと謳われた。だが、実は「十五年戦争に関連した沖縄の死者」すべてを記録した沖縄「県」の慰霊碑でもあり、県民にとっては「みんなの位牌」の役割を果たす(4)。平和祈念公園で追悼式典が行われる「慰霊の日」には、多くの県民が朝から「平和の礎」に詣でる。まるで沖縄式の墓参りのように、敷物の上に座って重箱を並べ、刻印された名前に水をかけ、花を供えて線香を焚き、手を合わせて時を過ごすのである。

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