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ジャニーズと戦後日本のメディア・家族(前編)

ニューズウィーク日本版 / 2016年12月28日 6時32分

 ジャニー喜多川は、一九三一年、ロサンゼルスに生まれ、アメリカ国籍をもつ日系アメリカ人だった。朝鮮戦争の後に来日し(1)、ワシントン・ハイツ内の宿舎(後の国立オリンピック記念青少年総合センター宿泊棟)の四階の一室に住みながら、アメリカ大使館軍事援助顧問団(MAAG)の職員として勤務していた。

 彼は大使館勤務の傍ら、プライベート・ビジネス(私事)として、子どもたちに少年野球を指導していた。この少年野球チームの名前が「ジャニーズ球団」であった。

 あおい輝彦は、ジャニーズ球団を金網の外から羨ましく覗き込んでいたときに、中谷良は、友達とフェンスを乗り越えてラジコン飛行機で遊んでいたときに、ジャニー喜多川に声をかけられた。米軍施設といえばオフリミットであり、日本人は原則的に立ち入り禁止だった。だが、ワシントン・ハイツは一九五七年までは周辺に住む子どもの立ち入りを許しており、それ以降もこっそり侵入していた小中学生は少なくなかった。ジャニー喜多川は、そうした子どもたちを相手にして、ワシントン・ハイツや立教大学のグラウンドで野球を教えていた。当時の少年たちにとって野球といえば、阿久悠が『瀬戸内少年野球団』で活写したように、憧れであり新しい時代の象徴だった。

 ジャニーズ球団は、メンバーに浜田光夫らが所属し、力道山や松島トモ子が応援に加わるなど芸能界との強いパイプをもっていたが、かといって最初からアイドル・グループを志して結成されたわけではなかった。アイドル・グループ〈ジャニーズ〉結成の直接のきっかけとなったのは、ジャニーズ球団の少年たちがジャニー喜多川とともに丸の内ピカデリーで映画「ウェスト・サイド物語」を観賞したことだった。



 少年たちは、歌って踊るアメリカの不良少年のミュージカルに魅了され、何日も映画館に通った。やがて見よう見真似でダンスを始め、そのなかで残っていったのがあおい輝彦、中谷良、飯野おさみ、真家ひろみの四名だった。彼らは、自分たちでミュージカルを上演することを夢見るようになった。ジャニー喜多川も「日本版ウェスト・サイド物語」の上演を目指し、自作のミュージカル台本「いつかどこかで」の制作に着手した(2)。〈ジャニーズ〉は、ワシントン・ハイツという日本のなかの「アメリカ」を母胎とし、また映画のなかの「アメリカ」に憧れて誕生したのである。

 ジャニー喜多川は歌って踊れる少年グループを育てるべく、名和太郎の運営する新芸能学院や渡辺プロダクションに四人の少年たちを紹介し、本格的なトレーニングを受けさせた。やがて池袋のドラム、新宿のACB(アシベ)、銀座の美松などのジャズ喫茶に出演し、一九六三年一月にはナベプロが取り仕切る第十九回日劇ウェスタンカーニバルで伊東ゆかりのバックで踊るなどした。この時期の〈ジャニーズ〉は、ナベプロの強い影響下にあったのである(図1 ※アステイオン本誌には掲載)。

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