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ジャニーズと戦後日本のメディア・家族(前編)

ニューズウィーク日本版 / 2016年12月28日 6時32分

 こうした事務所外での「下積み」を重ねながら、〈ジャニーズ〉は坂本九《上を向いて歩こう》、梓みちよ《こんにちは赤ちゃん》などのヒット曲を生み出したテレビ番組「夢であいましょう」に出演するようになった。一九六四年八月には永六輔作詞、中村八大作曲の《若い涙》を披露し、十二月にはこの曲でレコード・デビューを果たした。一九六五年二月にはモーター・スポーツを舞台化した石原慎太郎の作・演出ミュージカル「焔のカーブ」(主演・北大路欣也)のオーディションを受けて合格、「神風のわかもの」のごとくサーキットに臨む主人公に憧れる「雷族」を演じた(『日生劇場プログラムNo.16焔のカーブ』日生劇場、一九六五年四月)。

 また、一九六六年には四カ月間、アメリカに滞在し、レッスンに明け暮れ、ラスベガスなどのショー・ビジネスにも触れていった。しかし、一九六七年一月に帰国したころには、ザ・ビートルズの来日を契機に大流行したグループ・サウンズが芸能界を席巻していた。〈ジャニーズ〉もザ・ビートルズを敬愛しステージでも歌ってはいたが、バンド編成ではないミュージカル少年たちが活動できる場は、そう多くなかった。そして、この年の夏、ジャニー喜多川原作の「いつかどこかで」を上演、十一月の公演をもって解散した。

 なお、《若い涙》以降、〈ジャニーズ〉の楽曲の作詞を手掛けた人物には永六輔、石原慎太郎のほか、岩谷時子、江間章子、安井かずみ、山上路夫らがおり、いずみたく、團伊玖磨らが楽曲を提供した。権利関係は、渡辺音楽出版株式会社やオールスタッフ音楽出版社(3)などによって管理されていた。

【参考記事】SMAP解散危機、ベッキー騒動は「ニュース」なのか?

*本稿は、二〇一六年度サントリー文化財団「知」の試み研究会、ならびにJSPS科研費26870168の研究成果の一部である。本稿で使用した図版はすべて筆者所蔵。

※続き:ジャニーズと戦後日本のメディア・家族(後編)

[注]
(1)ジャニー喜多川の来日の経緯は詳しく知られていない。中谷良によれば、ハイスクール在学中に兵役志願し朝鮮戦争に従軍したとされているが(中谷一九八九:六一)、和泉ヒロシによれば、アメリカでラジオや演劇関係の仕事に携わったのちに来日、日本で韓国語を学習して板門店に渡り、米軍の命令で一年二カ月のあいだ朝鮮戦争の戦災孤児に英語を教え、そのあとに再来日したとされている(和泉一九七六:三七)。和泉ヒロシは小菅宏のペンネームで、彼は一九六八年からジャニー喜多川と親しく交際し、ジャニー喜多川本人から情報提供を受けて「ジャニーズ」関連本を著している。本節での記述は、この二著のほか、立花(一九九三)、秋尾(二〇〇九)、当時のコンサート・パンフレットや雑誌記事を総合的に検討し再構成したものである。

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