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ロシアとトルコの主導で、シリアは和平に向かうのか?(前編)

ニューズウィーク日本版 / 2017年2月6日 17時30分

しかし、シリアに関していえば、アサド政権がソ連を利用していた。ソ連軍を人質にとっていたと言ってもよい。ソ連軍の基地やミサイルを配備している限り、イスラエルは攻撃できなかったからである。シリア国内の軍事拠点は、中東におけるソ連のプレゼンスにとって不可欠だったが、ソ連崩壊後のロシアにとって、その意味は格段に重要となった。自らパトロンとなる社会主義国を失ったロシアには、シリアを除くと地中海からアフリカにかけての地域で軍事的プレゼンスを示す基地がない。シリアを失うと、最も近い黒海の艦隊はNATO加盟国であるトルコのイスタンブールにある狭いボスポラス海峡を通過しなくては地中海に出られない。

ソ連が崩壊し、冷戦が終焉を迎えた時にシリアが取った行動は、この国の体制がいかに実利を重視するものだったかをよく表している。1990年、サッダーム・フセインのイラクは突如クウェートを侵略し、翌年には米国を主導とする多国籍軍によるイラク攻撃、湾岸戦争が勃発した。この時、シリアは混乱の中にあったソ連(ロシア)を見限ったかのように多国籍軍に参加している。シリアとイラクは80年代以来、同じバース党政権でありながら対立関係にあったから筋は通っているのだが、あの戦争がアメリカ主導で行われたことは中東でも広く知られていたから見事に転身を図ったと言えるだろう。つまり、アサド政権のシリアは大義やイデオロギーではなく、実利をもとに動くと解釈すればいいのである。政権の正統性を批判しない限り、国民の経済活動に自由は保証されていた。スマートな独裁政権としての性格は、基本的に次男のバッシャールが政権を継いだ後も変わらなかった。

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しかし、政権を批判する者には容赦しなかった。今回、「アラブの春」と呼ばれた一連の民主化運動がシリアに波及するとは私は思っていなかった。それはシリア国民のあいだに、1982年2月にハマで起きた虐殺の記憶が残っていたからである。スンナ派イスラム主義のムスリム同胞団によるテロは1980年代初頭に頻発していた。政権側は猛反撃に出て、ついに保守的なスンナ派が多いハマを同胞団の拠点都市として包囲し激しい攻撃を加えた。人権団体が伝える犠牲者の数には数千人から数万人まで相当の幅があるが、今回のアレッポと同様、都市を徹底的に破壊する攻撃が加えられた。ひとたび反旗を翻せば、どれだけ悲惨な事態を招くか、四十代以上のシリア人は記憶していた。だが、若者たちはその記憶よりも、一連の民主化運動に突き動かされた。その結果が現在の惨状である。恐怖の統治は、バッシャール・アサド政権下で影を潜めていたかにみえたのだが、政権への反逆者に対するシステマティックな弾圧の方法と機関は健在だった。

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