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南スーダンからの80万人

ニューズウィーク日本版 / 2017年6月21日 19時10分

アスファルトの上を左右の大地から飛んだ赤土が覆っていた。ちょうど雨期に入っている頃で、雲には入道雲とともに日本の秋に見られるような薄く漂うものが混じっていた。巨大なビクトリア湖(九州二個分!)が穏やかに水を湛えているのが見え、周囲にはどこまで行っても緑の多いのが印象的で、道端で小さめのパイナップルや青いバナナ、野菜など売っている様子などをうかがっても、ウガンダは作物に関しては豊かに思えた(実際は各国の保健・教育・所得の平均達成度を測る「人間開発指数」において、2015年時点で 188ヵ国中163位だと言う)。

当然ウガンダと言えばアミン大統領の独裁や虐殺を思ってしまうが、現在の高速道路を走る俺の目にはあちこちにとにかく多くの学校(幼稚園、ハイスクール、大学などなど)があり、教育に力を入れている様子が理解出来る。考えればアミン失脚は遠く1979年のことなのであり、そのあとウガンダ共和国に何があったかを俺は知らなかった。

いや、反政府武装組織「神の抵抗軍(LRA)」との衝突、その後別の組織による首都での自爆テロと、基本的には依然危険なイメージだけはあった。したがって今回も、そうした紛争によるダメージに対してMSFが活動をしているのではないかと、目的地を知らされた俺はすぐに思ったのである。



80万人を超える難民

だが、当初谷口さんから届いたメールには「難民」という言葉があった。しかも80万人を超える、とあったと思う。それはほぼすべてウガンダの北、南スーダン共和国から流入していた。そう、日本の自衛隊がついに武器を持って入り、突然去ることになったあの南スーダン、特に首都ジュバ地域である。

したがって、我々はまずウガンダ首都カンパラにあるMSFウガンダのコーディネーション・オフィスへ行き、そこで問題のすべてに関するブリーフィングを受けると、一泊したのちに北部のキャンプ(というか実は「移住区」と言うべきなのだが、それは説明を受けたあとにする)へと10時間ほどかけて赴くつもりであった。

キャンプの最北部が南スーダン国境にほぼ接していることはまだまったく知らず、俺はかの国で起きていることと自分が現在いるウガンダを結びつけて考えることが出来ないまま、ある意味ではノンキにまわりの自然を、あるいはセメントで作られた首都近郊の素朴な店舗の様子を眺めていたことになる。

丘の続く地形に移ればそこがカンパラで、渋滞など経ながら一時間半ほどすると車は左の小道に入り、突然のがたがた道を行けばどん突きに鉄扉があって、懐かしいMSFのマークが塗られていた。

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