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ロヒンギャを襲う21世紀最悪の虐殺(後編)

ニューズウィーク日本版 / 2017年9月21日 12時0分

「そのほとんどが仕事狙い」と、遠山は言う。顕著な例が、日本にある日本語学校に留学する学生らが留学終了間際に突然、「自分は難民だ」と言って難民申請をするケースだ。国外にいるブローカーたちがこの規制緩和に目を付け、日本での労働を希望する人に指南している。

遠山によれば、法務省は年間1000件ほどの難民申請を見越して人員体制を組み予算を整えてきた。ところがこの法改正の結果、申請者数は8000人近くまで急増。申請を処理するために膨大な時間がかかっているという。

異国の地でも続く「拒絶」

申請者が増え、結果待ちに時間がかかることは「擬似難民」にとっては好都合。申請結果が判明するまで働くことができるため、より長く就労して金をためることができるからだ。その一方で、ロヒンギャのような人々が長期間待たされる状況になっている。



日本で家族(左写真)と暮らすアブールカラムは中古品販売業を立ち上げ中 Yusuke Maekawa-NEWSWEEK JAPAN

それでも、難民申請や在留特別許可を認められたロヒンギャはこれまで230人ほどいる。ゾーミントゥットやアブールカラムが口をそろえて言うように、日本での生活は安定している。

彼らの悩みはむしろ、ロヒンギャ以外の在日ミャンマー人からの拒絶だ。迫害こそされていないものの、祖国で経験した非国民扱いを、逃れ着いた日本でも経験しているのだ。

日本にはロヒンギャ以外にも多くのミャンマー人が暮らす。「彼らは普段、ロヒンギャが経営する食材店で買い物をするし話もする」と、在日ミャンマー人社会とのつながりも深い田辺は言う。「ただ、政治的な集まりや国家行事を祝う式典などでは、ロヒンギャを爪はじきにする」

88年、ミャンマーでの大規模な学生運動の盛り上がりを受けて、在日ミャンマー人の間でも民主化運動が活発化した。同じ年の9月には在日ミャンマー人協会が設立され、民主化に向けた機運を高めた。ロヒンギャ出身者が協会の書記長を務めたこともあり、露骨なロヒンギャ拒絶は見られなかったと、当時を知る田辺は振り返る。

潮目が変わったのは00年頃。「88年当時は民主化の盛り上がりもあり民族間のいさかいが隠れていたが、運動が落ち着くと拒絶し始めた」と、田辺は言う。

その理由は恐らく国籍法にある。88年世代の学生たちは国籍法を発令したネウィン政権下で教育を受けた人が多く、ロヒンギャに対する潜在的な差別意識が強く残っているという。

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