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習近平が絶対的権力を手にした必然

ニューズウィーク日本版 / 2017年10月31日 16時0分

真相がどうあれ、王の駆け込み事件は薄の政敵、特に習に格好のチャンスを与えた。薄は3月15日に職を解かれ、4月10日には正式に捜査の対象となり、翌年7月に正式に告発された。

厳密に言えば、薄の粛清はまだ胡が最高権力者だった時期に行われた。おかげで習は、全ては党の結束のためであり、個人的な野心とは無関係だと言いつつ自分の潜在的な政敵を追放する一方で、薄とそっくりな政策を進めることができた。



「重慶モデル」は公式に否定されたが、習は薄の手法を模倣していた。彼は全国の腐敗浄化の約束を掲げ、大物(虎)も小物(ハエ)も容赦しないと主張した。以前の腐敗撲滅運動とは異なり、引退した公務員や民間人、軍人も対象になった。

薄の組織犯罪撲滅運動と同様に、習の腐敗撲滅運動は汚職の蔓延にうんざりしていた一般国民の間に広く浸透した。少なくとも最初のうちは、秩序と公的な正当性を求める党幹部の間でも人気があった。

運動の初期段階で習が手にした最も重要な戦利品は、胡政権時代に交渉の達人として名を上げ、12年に政治局常務委員を引退した周永康(チョウ・ヨンカン)だろう。

薄の失脚以来、薄と周が親密な仲だったという噂が出回ったが、それは習が仕掛けたものかもしれない。「薄と周は言われているほど近しくなかった」と、周の盟友の娘は言っていた。だが「習は周を追及できるように2人を結び付けたがった」。

14年12月に周の逮捕が発表されるまでの1年間、周が任命した幹部らは次々と汚職の告発を受け、政府機関から排除された。これまでなら、標的になった人々は豊富な人脈や、相互の脅迫材料、部下の忠誠心を利用して、反撃することができた。だが薄の失脚による動揺や、多くの関係者の退職や異動、続く訴追でネットワークは断ち切られ、全く抵抗できなかった。

以前も粛清は頻繁に行われていたが、その後は冷却期間が続き、回復と抵抗の機会を与えていた。だが習の腐敗撲滅運動によるショックと畏怖は和らぐことがなかった。

習の新しいプログラムのもう1つの柱は、公的生活の全ての分野、特に国民の監視に関する党の完全な支配の再確認だ。

習が最高指導者の地位に就いた時は、彼が「中国のミハイル・ゴルバチョフ」になるというお決まりの臆測がささやかれた。しかし、それは主として欧米のメディアや政治家の、そして国内外の反体制知識人の希望的観測にすぎなかった。

欧米諸国による文化的侵略と「アラブの春」に触発された若者の反乱という妄想をばらまくことで、習は治安維持の名目であらゆる手段を自由に使うことが可能になり、党内の自分の敵や、党そのものと対立する可能性のある存在を攻撃した。

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