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「英雄」で「善人」のマケインはなぜ大統領になり損ねたのか──それはアメリカが変わってしまったからだ

ニューズウィーク日本版 / 2018年8月29日 19時48分

異端児となった穏健派

2000年以来、民主・共和両党の主張が似通ってきたことで、選挙戦はより激しいものになった。おかげで、両党ともに資金調達競争が過熱した。両党幹部が政策をめぐって繰り広げる「公聴会を開き、審議し、妥協する」という議会におけるこれまでの法案制定の手順は崩壊した。

「政策の要求者」として知られる活動家や利益団体や大口献金者にあおられて、党派による二極化が激しくなり、穏健派の存在を脅かしている。

マケインは問題解決のためなら進んで超党派の立場に立ち、2002年の選挙資金改革案を通すために民主党と妥協しようとした。1995年にはベトナムとの国交正常化のために、反対派と協力した。そして17年には移民制度改革を通すために民主党に合流した。

しかし彼もまた、いつのまにか自分の党の外にはじきだされていた穏健派の一人だった。

マケインは議会上院で審議されていた共和党の医療保険制度改革(オバマケア)の廃止・代替案に、最後の最後で反対票を投じた。オバマケアはマケインの1票で救われた。彼の行動の根底にあったのは、トランプに対する反感よりも、党内の法案制定の手順が崩壊したことに対する嫌悪感だった。

彼はヘルスケアのような大きな問題では、「幅広く意見を聞き、審議をつくし、改正する」という手順が必要だと主張した。彼は共和党のラマー・アレクサンダーと民主党のパティ・マレー上院議員がまとめた超党派の改正案を支持した。

外交と国防で信念を貫く

外交と国防政策はマケインの選挙戦の特徴的なテーマだった。潤沢な資金に恵まれ、臨戦態勢の軍隊に支えられたアメリカが、より確固たる姿勢で世界的なリーダーシップをとることを彼は望んでいた。だがその姿勢は、悲惨な結果に終わったイラク戦争とその後の10年間で、国民の支持を失った。

マケインの08年の大統領選挙のスローガン「カントリーファースト(国が第一)」は、彼の個人的な信念と献身を意味するだけではなく、テロとの戦争、特にイラクとアフガニスタンの戦争には粘り強さが必要だと言う彼の信念を表すものだった。

だがそれまでに、マケインの選挙基盤である無党派層の55%が、軍事的な勝利の見通しに確信をもてなくなっていた。彼らは米軍の撤退を支持した。

イラク戦争に対する無党派層の支持は、54%から40%に低下した。全体の63%が米軍の大規模増派に反対だった。バラク・オバマ大統領は、アメリカの軍事的な関与を縮小し、アメリカを立て直すことを誓った。それは戦争に疲れ、経済的な苦境に打ちのめされた有権者の共感を呼んだ。

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