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終戦の歴史に埋もれた2通の降伏文書

ニューズウィーク日本版 / 2018年9月6日 17時0分

ワシントンの陸軍参謀本部はマッカーサーの要請に応じて、ラール大佐をフィリピン奪還の作戦アドバイザーとしてオーストラリアへ派遣。ラールは日本軍の布陣を研究した末に、陸海軍合同作戦の「かえる跳び作戦」――米軍の陣地を次々に移動させながら敵の重要拠点をたたく作戦――の原案を練り上げ、攻勢に転じるきっかけをつくった。

その功績が認められて文官としても武官としても勲章を授与され、「太平洋戦争の名作戦家」と称賛された。終戦時には、連合国軍最高司令官となったマッカーサー将軍の側近として日本に赴任し、連合国軍総司令部(GHQ)のG3(参謀作戦部)に在籍した。

要求文書と3つの命令書

ミズーリ号の艦上で行われた降伏文書の調印式について紹介する前に、8月15日から9月2日までの日米の動きを、ラール大佐の資料と手紙を基に簡単に振り返っておこう。



父ラール大佐の写真に見入るピーター・ラール Q. SAKAMAKI

1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾したことを公表すると、翌16日、連合国軍最高司令部は日本へ電報を発し、フィリピンのマニラで日本上陸のための準備会議を開くので、日本から代表数人を派遣するよう通告した。日本は大本営参謀次長の河辺虎四郎陸軍中将を全権として、海軍の横山一郎少将、外務省調査局長の岡崎勝男ら、総勢16人の代表団を結成した。

8月16日の時点で、ラール大佐はマニラにある連合国軍最高司令部の参謀本部におり、そこでマッカーサーの右腕のスティーブン・チェンバレン准将の下で「マニラ会議」の準備作業と文書作成に着手した。彼が連日徹夜で作成した文書は「1945年8月19日及び20日のマニラにおける日本側降伏使節団に対する要求文書」(以下、「要求文書」と略す)と、3種類の「命令書」―― (1)天皇布告文、(2)降伏文書、(3)陸海軍一般命令第一号――である。

8月19日、日本の代表団は米軍指定の「安導権」を示す「緑十字」のマークをつけた白塗りのDC3型、後に一式陸上攻撃機2機に分乗し、羽田から木更津経由で九州へ向かい、伊江島で米軍のDC4型輸送機に乗り換えてマニラに飛んだ。午後6時、マニラのニコルス空港へ到着し、官舎で七面鳥の豪華な夕食を振る舞われた後、午後9時、連合国軍最高司令部のあるシティ・ホテルで会議が始まった。

連合国軍参謀長のリチャード・サザーランドが代表として、まず日本の陸海軍の装備と配置状況を説明するよう求めた。次に日本の天候、南九州の鹿屋海域と関東地方の陸軍の配置状況、空港の規模、東京湾沿岸海域の海軍の配置状況について詳細に聴取した。

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