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終戦の歴史に埋もれた2通の降伏文書

ニューズウィーク日本版 / 2018年9月6日 17時0分

そしてラール大佐が作成した「要求文書」に基づき、8月26日に米軍の先遣隊が上陸予定の南九州、28日にマッカーサーが上陸予定の厚木海軍飛行場周辺、それに降伏文書の調印式を行う東京湾の海域と関東地方に配置された日本の陸海軍の完全撤収を2日間で完了するよう要求した。

ラール大佐の調印式準備

翌20日の午前中、3種類の「命令書」が日本側へ手渡された。午後1時、日本の代表団16人は会議室から追い立てられるように空港へ送られ、再び米軍のDC4型機でマニラを離れた。

21日以降、マニラを大型台風が直撃したため予定を2日ほど遅らせて、28日に米軍の先遣隊150人が南九州へ向けて出発。ラール大佐を含めた50人の別動隊も厚木へ向かった。そして2日後の30日、マッカーサー将軍が厚木海軍飛行場に降り立った。

黒いサングラスにコーンパイプ(トウモロコシ製のパイプ)をくわえ、愛機「バターン」号のタラップを下りる姿は颯爽として見えた。だが内心では極度に緊張していたのだと、ラール大佐は後から聞いた。マッカーサーだけでなく、米軍兵士は誰もが日本の至る所に命知らずの特攻隊員が潜んでいて、いつ爆弾を抱えて突撃してくるかと恐怖に怯えていたのだという。

マッカーサーを乗せた車列は猛スピードで横浜へ向かい、山下公園に面したホテルニューグランドに滑り込んだ。ホテルに先行していたラール大佐は寸暇を惜しんで妻に手紙を書いた。

「今日は快晴だ。僕が今いるところは、水洗トイレ付きの清潔な部屋で、横浜のグランドホテルだ。東京から横浜の間の水道を止めて住人を立ち退かせ、われわれに優先的に水道水を提供してくれている......市内約20マイル圏内には警官が配置されて巡回し、道路にはピケが張られている」

便箋4枚にびっしり書かれた手紙からは、米軍の厳重な警戒ぶりがうかがえる。



ラール大佐のミズーリ号乗艦証 COURTESY OF ROMI TAN

1945年9月2日――。東京湾の横須賀沖に停泊したミズーリ号の甲板で「降伏文書」の調印式が挙行された。東京湾には連合国軍の船舶が無数に配備され、陸と海と空から厳重な警戒網が敷かれた。

「降伏文書」調印式の有名な写真がある(冒頭写真、本誌には連合国代表まで写った写真を掲載)。テーブルを挟んで、大日本帝国政府を代表する重光葵(まもる)外務大臣、大本営を代表する梅津美治郎陸軍参謀総長など、日本側代表11人が3列に並んでいる。テーブルの反対側にはマッカーサーが演説に立ち、その後ろに各国代表と米軍将校たちがずらりと整列している。

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