サウジvsトルコ、その対立の根源
ニューズウィーク日本版 / 2018年10月27日 16時0分
<著名ジャーナリスト殺害事件の裏には2つのスンニ派国家の300年来の確執がある>
サウジアラビアの著名ジャーナリスト、ジャマル・カショギがトルコ・イスタンブールのサウジ総領事館で惨殺されたのは、どうやら間違いなさそうだ。
凶行の背後に「改革派」で鳴らすサウジ皇太子ムハンマド・ビン・サルマンの影がちらついている。しかし問題の根はもっと深い。実を言えば、トルコ・サウジ間には信仰と地域の覇権をめぐる歴史的な確執がある。
そもそも両国は同じイスラム教スンニ派に属しているが、その信仰の「バージョン」が異なる。そのため互いに異なる道を歩んできて、今も異なる世界観を抱いている。
始まりは18世紀だ。いま「中東」と呼ばれている地域の大部分は、オスマン帝国領だった。都はコンスタンティノープル(現イスタンブール)、権力を握っていたのはトルコ人と、バルカン半島のイスラム教徒だ。一方、イスラムの聖地メッカとメディナがあるヒジャーズ(アラビア半島の西部)は文化的にも政治的にも後進地域だった。
そんなアラビア半島の過疎地で、1740年代に頭角を現したのが法学者のムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブだ。「真のイスラム」の復活を目指すワッハーブは、シーア派のみならずオスマン帝国バージョンのスンニ派をも「背教者」と決め付けた。彼にとって、聖廟崇拝などの要素を持ち込んだトルコ人の信仰は、イスラム法を勝手に「改変」する許し難い異端にほかならなかった。
このワッハーブに共鳴したのが、今のサウド王朝の始祖とされるムハンマド・イブン・サウドだ。2人はオスマン帝国から独立して第1次サウド王国を築き、その領土も野望も膨らませていった。1801年にはイラク中部のシーア派の聖地カルバラでシーア派住民を虐殺し、その2年後にはメッカを占領した。しかし1812年にはオスマン帝国が配下のエジプトを動かして鎮圧に乗り出し、追われたワッハーブ派は砂漠に逃れるしかなかった。
「エルドアン教」の台頭
1856年、同盟国イギリスの影響もあって、オスマン帝国は大胆な改革を断行。アラビア半島(メッカを含む)で横行していた奴隷貿易を禁じたのだ。
これに怒った奴隷商人に押されて、メッカの指導者アブドゥル・ムッタリブはオスマン帝国の信仰に「異端」を宣告。当時のオスマン帝国の政治家アフメド・ジャブデト・パシャの記録によれば、異端とされたことには「女性が肌を露出することや父または夫と離れて過ごすことを許し、女性に離婚の権利を与えたこと」も含まれていた。
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