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『天皇の憂鬱』が解き明かす、象徴天皇をかたちづくった「軽井沢」

ニューズウィーク日本版 / 2019年4月22日 17時10分

もうひとつ、同じく学友の明石元紹の発言も引用しておきたい。

「バイニング夫人は、禁欲的でとても良心的な人でした。「自分の意思を反映させる」ことを強調していましたが、それを教える授業にこれといった教材はなく、「こういう時、あなたはどうしますか」といった事例を出して話をしました。たとえば、穂積重遠東宮大夫が入院した時です。殿下に『行きましたか』と尋ねました。『いやまだです』と殿下が答えます。『なぜ行かないのですか。お世話になっている人のために、行きたいと思うのは誰ですか』『私です』『それなら私が行きたいと言うべきではないですか』 こんな感じで、会話の中で気づきを与えるのです」 およそ戦前には想像もつかない教え方に、若き皇太子は戸惑いと共に新鮮な驚きを覚えたことだろう。(92〜93ページより)

折しも、日本がポツダム宣言を受諾したあとも天皇の地位が定まらず、「退位論」が現実味を帯びていた時期。昭和23年に東京裁判の判決が近づくと、当時のメディアはさかんに「天皇退位」を取り上げた。

さらにA級戦犯が、皇太子の誕生日に絞首刑にされている。皇太子が軽井沢を訪れたのはその翌年だった。皇太子がバイニング夫人から、「将来、何になりたいか」と尋ねられ、「私は天皇になる」と答えたのも、天皇家を取り巻く厳しい状況があったからなのかもしれないと著者は推測している。

しかし、軽井沢はそうした厳しい現実をすっかり忘れさせてくれる場所だったということだ。やがて彼の地で正田美智子(当時)と出会ったことを考え合わせても、充分に納得できる話である。

ところで「象徴天皇」ということばを読み解いていくと、GHQに押し付けられたのではなく、国際的リベラリストで昭和天皇の信頼が篤く、クエーカー(キリスト教の一派で絶対的平和主義で知られる)教徒でもあった新渡戸稲造にたどり着くのだという。

そのことについて解説しているのは、新渡戸稲造の研究で知られる拓殖大学名誉教授の草原克豪だ。

「新渡戸は昭和六年に英国で出版された英文『日本』の中で、〈天皇は、国民の代表であり、国民統合の象徴である〉と述べています。 その三十一年前にアメリカで出版された名著『武士道』においても、天皇が〈国民的統一の象徴〉(原文では〈Symbol of National Unity〉)であることを強調していました。アメリカはこうした新渡戸の天皇観を参考にしながら、戦後の象徴天皇制の基礎作りをしたものと思われます」(119ページより)

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