『天皇の憂鬱』が解き明かす、象徴天皇をかたちづくった「軽井沢」
ニューズウィーク日本版 / 2019年4月22日 17時10分
「クエーカーはもともと慈善事業に熱心で、戦後の日本の復興事業にも積極的に協力していたので、当時の日本におけるクエーカー人脈の果たした役割は軽視できないものがあります」と草原は言う。 実際、現憲法に大きな影響を与えたマッカーサーの副官ボナー・フェラーズは新渡戸と同じクエーカー教徒であり、当然新渡戸の本は読んでいたといわれる。ちなみに、天皇の人格形成に影響を与えたといわれるバイニング夫人もクエーカー教徒である。 新渡戸は軽井沢に別荘を構え、いまも新渡戸通りにその名を残す。(119〜120ページより)
新しく定められた象徴天皇を支えたのは、戦後、宮内庁長官になった田島道治であり、侍従長になった三谷隆信だが、このふたりは新渡戸の門下生。田島は新渡戸家の近くに別荘を持っており、皇后と同じく、戦時中は軽井沢に疎開していた。また、終戦直後の文部大臣で天皇の『人間宣言』を起草した前田多門とも交流があったそうだ。
戦後の皇室を支えた人物としては、前田多門の他に安倍能成(学習院院長)、田中耕太郎(最高裁判官)の名がしばしば登場するが、大正7(1918)年、新渡戸が後藤新平と軽井沢夏季大学を開設した際、その運営にあたったのが前田多門と鶴見裕輔(衆議院議員)らだったという。
天皇が皇后と初めて出会われた軽井沢会テニスコートのトーナメントにおいて、小泉信三(慶應義塾長)とともに見学していたのが田中。田中は小泉と親交が深く、軽井沢の万平ホテルでよく会っていたという。
田中は新渡戸の門下生ではないものの、人格的、思想的影響を受けていた。また田中と親しかった安倍も軽井沢に別荘があり、天皇を野上弥生子(小説家)の別荘に案内したりしている。
さまざまな人名が登場するが、こうして見てみると、戦後の皇室には新渡戸人脈とクエーカー人脈が深く張り巡らされ、軽井沢がひそかな舞台となっていたことが理解できる。新憲法下で象徴天皇制が決まると、彼らが旧体制の人脈を排除して新たな人脈を形成していったということだ。
平成二十五(二〇一三)年、皇后は七十九歳の誕生日に際して、日本における女性の人権の尊重を現憲法に反映させたベアテ・シロタ・ゴードンや「五日市憲法草案」にふれられた。「五日市憲法草案」とは、明治憲法の公布(明治二十二年)に先立って、農民や市民が寄り合って書き上げた憲法草案で、現在の憲法に近いといわれる。改憲の空気が広がる中で、この憲法草案をあえて「世界でも珍しい文化遺産」と評価するところに、両陛下のリベラルな発想を感じる。それは、こうした人脈と無縁ではないだろう。(121ページより)
この記事に関連するニュース
-
天皇陛下だけが足を運ぶ「歪な皇室外交」でいいのか…両陛下の「英国訪問成功」を手放しで喜んではいけないワケ
プレジデントオンライン / 2024年7月6日 9時15分
-
国会の議論はあっという間に行き詰まった…皇位継承問題の解決をこじらせている最大の阻害要因
プレジデントオンライン / 2024年6月28日 8時15分
-
《24回目の命日》「亡くなった日もお見舞いに」幼い佳子さまの思い出に刻まれた曽祖母・香淳皇后
週刊女性PRIME / 2024年6月16日 21時0分
-
美智子さまの皇位継承議論“口出し報道”の真相を宮内庁が回答、憤るご友人らは「考えられない」
週刊女性PRIME / 2024年6月13日 8時0分
-
<皇室の課題>このままでは自然消滅も=危機回避へ国民の7割超が「女性天皇」支持、容認論に勢い
Record China / 2024年6月12日 8時0分
ランキング
複数ページをまたぐ記事です
記事の最終ページでミッション達成してください
![](/pc/img/mission/mission_close_icon.png)