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明治時代の日本では9割近くが兵役を免れた──日本における徴兵制(2)

ニューズウィーク日本版 / 2019年7月24日 12時0分

それは次のような意図を持つ。第一に、徴兵は上からの一方的徴発ではなく国民の「護国ノ義務」に基づくものであり、忌避は許されないことを明らかにする。国民が兵役義務を持つことを周知徹底するというのは、山縣有朋の方針でもあった。

第二に、「護国ノ義務ヲ帯ル者」を徴集すると明記することで、義務を持たない者が存在することを明らかにする。現実に老人や子供、検査不合格者は兵役を免れており、徴兵令そのものがザル法であった。そのことを明示して「血税」におびえる国民を安心させようとしたのである。

ところが、この修正案は賛成九反対一〇の一票差で葬り去られてしまう。有力な反対意見は、河野敏鎌、柳原前光らによって唱えられた。それは「護国ノ義務」は憲法制定によってはじめて定まるので、憲法がない状態で徴兵令にそれを明記するのは不適当、というものである。

この場合の憲法とは、当時元老院が天皇から命じられて起草した憲法草案がイメージされている。元老院憲法草案には、国民から選ばれた「代議士院」の存在が明記されており、天皇と立法権を分有し、ともに憲法を遵守する約を結ぶ機関として位置づけられていた。ということは、元老院の河野や柳原にとって、憲法上の兵役義務は、国民から選ばれた「代議士院」があってはじめて具体化するということになる。当時の元老院には民権派系の書記官も在籍しており、河野、柳原は民権派に近い議官と目されていた。

このことは、立志社建白以来、民権派のなかにあった立憲政体と徴兵制、もしくは参政権と兵役義務の不可分性という問題意識を、現実の憲法起草や徴兵令改正に反映させようとする動きが微弱ながら存在していたことを意味する。



「代議士院」による憲法遵守の約を重視した元老院憲法草案は、いくつかの修正を経て、最終的に政権中枢によって却下された。また現実の明治憲法は欽定憲法であり、民権家たちの期待に反して国民から選ばれた者が制定に参画できなかった。明治二三年の帝国議会開設の際に衆議院議員でもあった中江兆民が訴えたように、衆議院で憲法条文を一条一条点検し修正を行うことで、欽定憲法を実質的に国民の憲法に転化しようとする試みも、実現しなかった。

明治二二年一月二二日の改正徴兵令は、次のような条文に改まる。「第一条 日本帝国臣民ニシテ満十七歳ヨリ満四十歳迄ノ男子ハ、総テ兵役ニ服スルノ義務アルモノトス」。徴兵令が制定されてから一五年が経って、兵役が義務であることが明文化された。これは、改正徴兵令から一月も経たない二月一一日に発布された明治憲法の第二〇条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」に対応する。兵役はもはや一方的な徴発であることをやめて、憲法に基づく義務として再定義された。だがそれは、国民の同意のない義務であった。徴兵令改正の報に接した『朝野新聞』(一月二四日)は、「明年の帝国議会開場の時を待ち其議に付して国民多数の意見を問ふ」原則論を唱えたが、もはやどうすることもできなかった。

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