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イスラエル軍もハマス軍事部門も「直面したことがない事態」...イスラエル精鋭部隊「サエレット・マトカル」はどう動くのか?

ニューズウィーク日本版 / 2023年11月2日 14時25分

機長(第2次大戦では英軍のパイロットだった)からの緊急通報を受けて、すかさずサエレットが出動することになった。

当時の司令官は、後に首相となるエフド・バラク。ネタニヤフを含む隊員は整備員に成り済まし、車輪の修理を口実に機体に近づき、突入した。

ネタニヤフは1972年、人質奪還作戦に特殊部隊の一員として参加して表彰された。左は当時のシャザール大統領 GPO/GETTY IMAGES

機内では乗客3人が負傷し、うち1人は後に死亡した。ネタニヤフ自身も負傷した。隊員の1人が拳銃で犯人を殴打したとき、暴発した弾丸が彼の手に当たったのだ。

その4年後、サエレットはまたも大胆な奇襲作戦で名を上げた。76年、アフリカ東部ウガンダの首都郊外にあるエンテベ空港で、パレスチナ解放人民戦線・外部司令部派(PFLP-EO)がエールフランス139便を乗っ取り、乗客100人以上を人質に取り、500万ドルと同志53人の釈放を要求した。

イスラエル政府はサエレットに出動を命じた。ネタニヤフの兄ヨナタンを含む隊員たちは貨物機で空港にひそかに着陸。当時のウガンダ大統領イディ・アミン(テロリストを擁護していた)の車列を模した黒いベンツで移動を始めた。だが大統領専用車はしばらく前に、新型の白いベンツに変更されていた。

元隊員ネタニヤフの対応力

空港に配置されていたウガンダの警備隊はその怪しい車列に気付き、人質の拘束されているターミナルに向かうサエレットの部隊と激しい銃撃戦になった。

結果的にサエレットはハイジャック犯全員を殺害したが、ウガンダ兵数十人も犠牲になった。人質の犠牲は4人だった。イスラエル側の犠牲も1人いたが、それがヨナタン・ネタニヤフだった。

いわゆる「サンダーボルト作戦」だが、今は故人に敬意を表して「ヨナタン作戦」と呼ばれている。

弟のネタニヤフは40年後の2016年に首相としてエンテベ空港を訪れ、「兄が死んだとき、私たちの世界は破壊された」と述べている。また、兄を失ったことがきっかけで、自分は政治家としての道を歩むことになったとも語っている。

首相として最初の任期(96~99年)の後を継いだのは、サエレットの司令官だったエフド・バラク。アイソトープ作戦や、ミュンヘン五輪でのイスラエル選手団虐殺事件の報復としてレバノンでパレスチナ解放機構(PLO)の高官を殺害した73年の「若者の春作戦」を指揮した人物だ。ヨナタン作戦やその他の秘密作戦の実行にも参画している。

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