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「海外在住・日本人作曲家」の起源...故国を離れて初めて日本を「見出した」音楽とは?

ニューズウィーク日本版 / 2024年2月28日 11時10分

そもそも、日本以外に住みながら創作活動を続けるという日本人作曲家のあり方、そのモデルとも言えるものを創始したのは誰なのだろう? 

例えば、かつての山田耕筰のようにドイツに留学し、いくつかの作品を書いて発表はするものの、基本的には帰国して創作活動を続けるというひとが第二次世界大戦以前には多かった。

近年、再評価の高い大澤壽人のように、合衆国とフランスで創作活動を行ったひとも、その期間はさほど長くはなく、また本来の滞在目的は「学び」である。貴志康一のように、最初の留学のあとに、数回ドイツに赴いてはベルリン・フィルを振るなどした作曲家/指揮者の場合も、その期間は非常に限られている。

じっくりと腰を据えて、創作家としての地盤を日本の外に持っていたひとは、第二次世界大戦が終わるまではなかなか見当たらない。戦後になると、国際的な感覚を持っていた邦楽の音楽家も同様の道を歩む。

例えば、生田流箏曲の唯是震一のようにコロンビア大学でヘンリー・カウエルに学び、しばらく合衆国内で活動するものの(ストコフスキーなどとも共演して)、数年後には帰国して日本に本拠を置くようになったひとも出てくる。

すなわち、ヨーロッパ(ないし合衆国)は日本の作曲家たちにとって、まずもって「学びの場」なのである。その意味では、刺激と「最先端」の情報の多いこうした空間は、ヨーロッパ音楽に真摯に取り組もうとする若い才能にとってはなくてはならぬものだろう。

しかしながら、学習期間を終えたのちもその地に留まり、あるいは土地を変えて居残りながら、自分独自の音楽を探究し創っていくひと、それがここで扱おうとする「モデル」である。

そう考えた場合、その初期の顔ぶれとして数名が思い浮かぶ。一柳慧(ニューヨーク)、丹波明、平義久(以上、パリ)、篠原眞(ケルン、ユトレヒトほか)、松下眞一(ハンブルク)といった作曲家たちである。

いずれも1950~60年代に日本を離れたひとびとだが、このなかで、一柳慧は留学期間のあとの滞在期間が他に比べて短いものの、その後の日本国内に与えたインパクトが強く、またあとで触れるように、居場所にこだわらない「国際性」という意味では、新しい形態の創作像のひとつのモデルとなったと言える。

ここに挙げた作曲家たちは、留学時、日本を出国する時点では明らかに欧米の音楽を学ぶという姿勢が強かったにもかかわらず、いずれかの時点で「日本」を見出し「回帰」することになる。あるいは日本と向き合う顕著な要素を創作のなかに採り入れていく。

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