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万葉集は世界レベルの文学作品であり、呪術的な世界の記録として極めて優れている

ニューズウィーク日本版 / 2024年3月13日 10時55分

中国の文化の影響を受けながらも、本来、呪術的な精神性、世界観を持っていることがうかがえます。

アイルランドにもそういう言霊世界観や文化があります。詩人の位が高いのは、言葉で現実にさせる力を持っているからです。

古代ギリシャの文学に出てくる「ロゴス」は、言葉も現実もロジックも全部含む概念ですから、呪術的な世界観は同じようにあるわけです。

でも、私の知る限り、それが記録として残されているのは『万葉集』だけです。もしそうであれば、『万葉集』は、世界レベルの文学作品であるだけでなく、呪術的な世界の記録としても極めて優れた価値を持つことになる。

文学の枠組みを超える、人類にとって非常に大事な歌集だと思うのです。それが、私が『万葉集』を翻訳する動機でもあるのです。

上野 そのとおりだと思います。

春になると天皇やその地域の位の高い人が山に登って景色を見渡し、「こういう景色が見えた」と歌います。

「大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は......(5)」。

国原には煙が立っている。これは、炊煙です。海に鳥がたくさんいるのは、魚がいるということ。さぞかし豊漁なんでしょう。それが「見れば見ゆ」、つまり「見たら見えた」という型の国見歌(くにみうた)です。

実際には、貧しくてご飯なんか食べられないかもしれない。豊漁でないかもしれない。でも、天皇が「そういうものが見えた」と歌うことで、「それが実現する」と思う。

これは言葉に魂があるから、言霊があるからです。『万葉集』に「見れば見ゆ」型の国見歌がこれほど多数存在しているのは、そういう古い呪術が『万葉集』の歌の形式に引き継がれているからなのです。

マクミラン 『万葉集』の翻訳文学という側面については、「型があるから破れる」という先ほどの説明にすごく納得しました。それでは、今お話しになった呪術的な面についても、中国に型があったのでしょうか。それともそれは日本独自の感性ですか。

張 日本にはもともと呪術があり、例えば漢文を学んだ日本の文人たちが外交使節として中国に行き、呪術を見て似ていると感じた、ということはあると思います。

ただ、中国の呪術は既に、天を祀る儀式、地を祀る儀式というふうに宮廷の中で儀礼化していましたから、比較すれば日本の呪術のほうが匂いは強かったと思うんです。

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