ほっとして隣を見たら「顔が半分ない死体」が...今も「戦地ウクライナ」に残る日本人たち、それぞれの物語
ニューズウィーク日本版 / 2024年6月6日 17時30分
ただこちらが攻撃を始めると、敵にこちらの位置が分かる。自分たちがいた塹壕から2メートルの場所に迫撃砲が落ちて、塹壕の上部を覆う丸太の屋根が吹き飛んだこともある。
歩兵部隊の応援として前線に行くこともあったが、その時は途中で車が故障し、自分の装備とは別にツルハシや特大マットなど、約40キロ近くの荷物を持って5キロ近く歩くことになった。任務を終えた後、ようやく味方の歩兵戦闘車が通りかかり、それに乗せてもらい帰ることができた。担架に固定された兵士が横たわっていたので、顔をのぞくと顔が半分ない状態で死んでいた。
前線に近い街ドネツク州クラマトルスクで、諸事情で部隊を移ることになり契約の切り替えを待っているケンさんに再会したのは24年3月初旬だった。ケンさんの目にも、見るからにウクライナ軍の弾薬が減っているのが分かった。そんな状況になっても戦い続けるのは、「この戦争を最後まで見届けたいと思っている」からだ。
中村さんは自らの意思で長年暮らしたキーウに残留することを決めた KOSHIRO KOMINE
誰もが認める人格者
23年8月に会った中村仁さん(56)も現地で22年間暮らす日本人だ。ロシアの侵攻後も、キーウのウクライナ国立工科大学内にある「ウクライナ日本センター」に勤務。茶道教室や将棋大会など日本の文化を広める活動を続けている。現地の日本人の誰もが認める人格者でもある。
ロシア軍がキーウに迫った当初、日本大使館から安否確認と避難を促す連絡が毎日来たが、中村さんは自らの意思でキーウに残ることを決めた。
高校生の時にラグビー選手だった中村さんは、高校の部活引退後に本格的に始めた筋力トレーニングにはまってパワーリフティングの選手になり、95年にロシアのイルクーツクで行われた重量挙げの大会に日本代表として出場した。
バイカル湖の別荘に滞在して、イルクーツク大学で日本語を勉強している学生たちと交流をしたことをきっかけに、自分でロシア語を学び始め、語学習得のためキーウ国立言語大学に1年間留学して、そのまま住み続けている。
「この戦争は終わりが見えない状況にありますが、どのような状況になったとしても最後までウクライナに残る、ウクライナと共にあろうと思っています」と、中村さんは言う。
現地でボランティア活動を続ける秋山さん(左)と土子さん KOSHIRO KOMINE
子供の心をアートで癒やす
ハルキウで無料食堂「フミカフェ」を運営する土子文則さんは「ウクライナで一番有名な日本人」だが、現地でボランティア活動をしている日本人は土子さんだけではない。
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